フェミニズム小説なんかじゃない――『別の人』(4)

アンジン市に帰ったキム・ジナは、スジンと対決するが、言い合いをしても、頭にきて、どこか嚙み合っておらず、ちぐはぐな対決になってしまう。当たり前だが、スジンが書き込みをしたのではないから。
 
そのまま久しぶりに大学に寄ると、人文学部の前に貼られた、キム・イヨンの壁新聞が目に留まった。
 
それは、キム・ドンヒのセクハラを糾弾する長いもので、キム・イヨンにしてみれば、必死の覚悟で壁新聞に出したものである。

「去年の十二月十六日、彼と一緒の飲み会で、私はセクハラを受けました。彼は、私の背中の下着の部分を撫でさすりました。〔中略〕私は体をよじって避けようとしましたが、キム・ドンヒ講師はますます露骨に手を伸ばし、私の背中をずっと触り続けていました。」
 
両者の言い分は、あまりにも食い違っている。著者のカン・ファギルに言ってやりたい。あなたしか書けないのだから、真相を一つにして書きなさい、と。
 
壁新聞は続く。

「私の感じた絶対的な羞恥心を、果たして客観的な項目で評価できるのか疑問です。でもキム・ドンヒ講師の一学期の休講で、ある程度の処罰はなされたと判断し、受け入れることにしました。」
 
ところがドンヒは、「ユーラシア文化コンテンツ学科」では講義をしないものの、工学部や自然科学部では、人文学関連授業という名目で、そのまま講義をするという。
 
キム・イヨンは、これが我慢できなかったから、壁新聞で糾弾しようとしたのだ。
 
ところがキム・ジナの見ている前で、事務室の男の職員2人が、キム・イヨンの壁新聞を、丸めてゴミ箱へ捨ててしまった。
 
キム・ジナはそれを見ていて、長いこと忘れていたキム・ドンヒの顔を思い出した。

「彼とつきあっていた四か月のあいだ、ずっと苦しかった。真っ当な恋愛じゃなかったから。いくら初めてで何も知らなくても、そのくらいのことはわかった。ドンヒと私の関係は決して恋愛ではなかった。」
 
ではなんだというのか。両者の言い分は、またも真っ向から食い違っている。

私はどちらかと言えば、ドンヒに同情的である。いろんな女とすぐに寝ちゃうけども、ドンヒの方がキム・ジナを、よく観察している気がする。
 
しかしそんなことは、実はどうでもいいのだ。作者が冷酷に描き出すのは、韓国では女と男には、これだけ激しいズレがあり、食い違いがあるということだ。理解し合うのは絶望的に無理である。
 
第二部9章は、ヤン・スジンが主役である。スジンはキム・ジナと同郷だった。母はどうしようもない女で、家を飛び出し、次々に男と寝る女だった。スジンの父親は、だから分からない。
 
村八分にされたスジンと付き合うのは、キム・ジナだけだった。しかしそれも、些細なことで仲違いする。
 
スジンは祖母に育てられ、努力もし、アンジン大学に入った。そして、多くの女子学生が憧れるヒョンギュと結婚して、今はアンジン市内でカフェをやっている。
 
しかしスジンは、20歳のときに「レイプ」されたのが、心の深いところで傷になっていた。

「レイプされた後、スジンはもちろん壊れた。一番つらかったこと? あの時スジンは妊娠した。ありえなかった。たった一度きりなのに、たった一度きりが、彼女の人生をズタズタに引き裂いた。どうしてこんな安っぽい展開になるのだろう? レイプされて妊娠なんて。妊娠は神秘的なことじゃなかったのか。こんなに安易で簡単なこととは。」
 
相手のキム・ドンヒは、交通事故に遭ったようなものだから、忘れようと言ったのだ。
 
スジンは、ハ・ユリのところに身を寄せて、傷がいえるのを待った。
 
ヒョンギュと出会ったとき、スジンはつらい記憶を捨て、別の人になろうとした。だからハ・ユリを見かけるたびに、つらい記憶が蘇って不愉快な気分になり、彼女を遠ざけるようになった。
 
しかし今、結婚した相手のヒョンギュと、うまくいってないのだ。どうしてだろうと、スジンは焦り狂っている。
 
スジンもまた相手の男と、極度の緊張関係にあるのだ。

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