朗読で養老先生の番が来て、『臨床読書日記』の何回目かを読んでいる。車谷長吉や坪内祐三の朗読の場合は、対象となる本は決まっているのだが、養老先生の場合、何を取り上げるかは、その時の気分しだいである。
『臨床読書日記』を朗読していて、「クロサキのMS‐DOS」という章で考えさせられた。
これは書評集であり、ここで問題になっている本は、正確には『哲学者クロサキのMS‐DOSは思考の道具だ』(アスキー出版局)という。
そこに「クロサキ氏」の言葉として、こんなことが書かれている。
「これまで私たちの文化を形づくってきた、印刷文字というメディアに、電子文字っていうメディアがとって代わろうとしているとき、実は、私たちそのものが変化しようとしている。そしてこの変化は、おそらく、私たちが気づかないようなレベルで確実に進行するような、そんな出来事なのです。」
以前もここを読んだとき、いろんな意見があるものだ、しかし「私たちが気づかないようなレベルで」進行するのだから、考えてもどうしようもない、としか考えなかった。
今回はちょっと違った。その先がある。
「〈自分の何でもない文章が美しい活字になった喜び〉があり、次には〈活字に対するあこがれの消失〉が続き、そしてその次には、何が書いてあるかという内容にかかわりなく、〈活字というメディアそのものに対する倦怠感〉がやってくる。」
この変化は、著者がここ4,5年感じた、私的な体験である(ここ4,5年感じた、とは言うものの、『臨床読書日記』そのものが、20年以上前の本である)。ここが私には今回、リアルに迫ってきた(ちょっと、というかかなり遅いね)。
もちろん、読む本は次から次へと生まれていて、「活字というメディアそのものに対する倦怠感」など、私自身には皆無なのだが、一方、新聞や週刊誌の、くたびれ切った書評欄を見ていれば、もういいか、という気もしてくる。新聞や週刊誌の記者が、優れたものを受容する力が弱っているのだ。
黒崎政男の議論には、さらにその先がある。
「おおげさに言えば、グーテンベルク以来の活字文化、それは書物の文化であり、近世西洋の文化ですが、その文化に対する人々の倦怠感は、こんなところにも原因があるかもしれません。内容が古くなったり、無意味になったのではなく、そのメディア形態が古くなったのです。」
だから活字の時代は終わった、次は「電子文字」、というわけにはいかないことは分かっている。
しかし、幼稚園児が、一番なりたいものにユーチューバーを上げる時代は、〈言葉〉に関しては、どうやらこれまでとは違う側面に入ってきたことを示している。
(『臨床読書日記』養老孟司、文藝春秋、1997年3月10日初刷)
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