奇跡の聞き書き――『音が語る、日本映画の黄金時代―映画録音技師の撮影現場60年―』(22)

90年に石川好原作の『ストロベリーロード』(91)の話が来る。60年代、アメリカに渡り、イチゴ農園の成功を夢見た日本人兄弟の奮闘を描く。
 
僕は原作を読んでいる。あらかた忘れたけどもいい作品だった、という記憶がある。
 
監督は蔵原惟繕で、これが最後の作品になる。
 
紅谷さんは脚本を読んだとき、少し不安になった。そしてこの不安は、最後まで解消することはなかった。脚本の大半が、片言の日本語、英語、スペイン語の、会話の面白さで構成されていたのだ。
 
アメリカのロケについても、紅谷さんはかなりしゃべっている。とにかく規模から何から、すべて違う。ユニオンを通さなければ、どんな事柄もすんなりとは行かない。

だから逆にアメリカの映画人は、ある面ではユニオンに護られていて、その安心からか、女性のスタッフが驚くほど多い(それでも#MeToo〔ミーツー〕運動は、ずいぶん後になってから起こったのだが)。
 
あるとき、「黒沢組」のネームの入った、黒いジャンパーを着ていったら、アメリカ人のスタッフが、全員交代で見に来たことがある。やはり黒澤明は偉大だ、と紅谷さんは思った。

『ストロベリーロード』は、蔵原監督の思うような作品にはならなかった。公開後も話題にならなかった。
 
紅谷さんは、蔵原監督とは長い付き合いだった。

「紅谷 僕は裏方の中ではわりと親しい方だったから。会って映画の話をすると、『俺はエンタテインメントに関して自信がある』とあの人は言うんです。自分で考えた企画も二、三本あったようですが、どれも流れてしまった。『エンタテインメント』というわりには、あの人が考える企画はどこか一般向きではないところがあるんです。そこが難しかったですね。」
 
紅谷さんにとって『ストロベリーロード』は、心身ともにつらい仕事だった。その仕事と重なるかたちで、『八月の狂詩曲(ラプソディ)』に参加している。
 
なにしろニューヨークから帰国して、トランクを抱えたまま、秩父のロケ先にある、黒澤監督が待っているホテルに直行した。

「紅谷 『遅くなって申しわけありませんでした』と言って僕が入っていくと、ほかのスタッフは待ち疲れた顔をしているのに、黒澤さんだけは笑顔で拍手して出迎えてくれたんです。あんな嬉しそうな黒澤さんの顔は見たことがなくて、いまだに忘れられません。本当に穢れのない子どものようなにこやかな顔をしていてね。あの笑顔を見たとき、『やっぱり、黒澤組に帰ってきてよかった。この人のためなら!』という思いになりました。」
 
手拍子で大絶賛、今村昌平の場合でも、こんなに無条件では褒めない。

『八月の狂詩曲』については註を引いておく。

「監督:黒澤明、出演:村瀬幸子、井川比佐志。村田喜代子の『鍋の中』を原作に、長崎での原爆体験を持つおばあちゃんと、四人の孫とのひと夏を触れ合いを描いた作品。」
 
紅谷さんはこの映画についても、微に入り細を穿ち語っている。しかし僕は、映画そのものに惹かれるところがない。
 
ただリチャード・ギアについてしゃべっていて、そこは興味深い。

「紅谷 あそこでリチャード・ギアは、脚本で八行ほどある日本語のセリフを言うんです。結構長い二人の芝居でね。でも最初のリハーサルから会話が淀むこともなくて、おばあちゃんの村瀬さんと気持ちが通じ合っている雰囲気がよく出ていました。だからテストを何度もやる必要はなくて、すぐ本番に入れた。黒澤さんもご機嫌でしたよ。リチャード・ギアは黒澤さんをすごく尊敬していて、二人の関係はとてもよかったです。」
 
やっぱり黒澤明を尊敬しているんだ。
 
本書の7ページにわたり『八月の狂詩曲』を語った後、紅谷さんは全体を総括している。

「紅谷 結果的には黒澤さんと仕事ができて本当によかったと思っています。撮影現場では苦労が多かったし、面と向かってこちらがものを言い難いところもありますが、しっかり自分の意見を言って理解してもらえれば受け入れてくれる。それに黒澤さんがニコッと笑って握手されると、すべての苦労が吹き飛んでしまう。本当は人間的にもすごく魅力的な人なんです。」
 
ふたたび絶賛の嵐となって幕を閉じる。
 
それから数ページ後へ行って、またもふたたび黒澤の話になる。

「――紅谷さんから見て、黒澤監督のすごさというのは、人間的な魅力に尽きますか。
紅谷 黒澤監督はすべての発想がすごかったですね。傑出した天才であり、やはり世界中の映画人から尊敬を受ける『世界のクロサワ』です。どんなに大変なことがあっても黒澤監督に『おつかれさま、次も頼むよ』とニコッと笑って握手をされると、すべてを許してしまう。それほど、人間的に豊かで魅力ある方でした。黒澤監督は『この人のためなら』と思わせる、偉大な巨人でした。」

どんな人だったんだろうな、黒澤明。作った映画よりも、その人間に、より一層の興味が湧く。自分の目で確かめないと、にわかには信じられない。

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