にわかに興味が湧いてきた――『博奕好き』(4)

本はだいたい定価を付けて、書店で売られている。しかしそうでないものも、実は膨大に作られている。
 
高橋順子は初めての詩集、『海まで』を250部、牧神社から自費出版した。これは本屋には並ばない。自費出版だから。

しかし牧神社はその直後に、不渡手形を出して倒産した。債権者が著者に渡したのは、わずか12冊だった。

「あなたも、倒産に縁があったのね。しようがないわね、と私は私の白い表紙の詩集に言った。自分の分身のごとき本であった。」
 
大学を出た後、高橋順子は河出書房に入り、そこはたちまち倒産し、青土社に拾ってもらったのだ。

「このように人は自費出版をするのである。後年自分に、他者の自費出版の本がぞくぞくと送られてくることになろうとは、そのときは夢にも思わなかった。商品ではない本が一日おきくらいに届くのである。みな作者の分身である。」
 
私は考える。ネットの時代、本は時代遅れである、とみんな思っている。街の書店はどんどんつぶれていく。
 
しかし本屋が潰れた先には、自費出版の本だけは残るのではないか。高橋順子の言う「自分の分身のごとき本」は、きっと変わらずにあり続けるだろう。「自分の分身」は、本以外には考えられないからである。あるいは本が、もっとも簡便だからである。
 
もう一か所、「物としての本」から引いておく。これはいわばカビの生えた、従来の主張である。

「そばに置いてあることで精神の安寧を得られる物である本。背表紙を見るだけで、その本の著者がこの世に生きていること、或いは生きてきたことに勇気づけられる、さまざまな意匠でもって飾られた本という精神的な物。はたしてフロッピーディスクのような物が、こういう気分を人に与えてくれるものかどうか。」
 
これはその通りだと思う。本には固有の、本だけの価値がある。だから問題は、作った本を、どういうかたちで人の手に渡していくか、というところに尽きる。
 
それを本の流通過程と呼んでは、間違いになる。これは知恵のあるものを、本当に呼んでいると思う。
 
第Ⅳ章は「俳句」である。およそ80句のうち、右の3句だけが印象に残った。

    九十九里浜
  しらうをは海のいろして生まれけり

  虻一つ死にたるまゝの書斎かな

  椿落つ大音響の夢の中

どれもいい句だと私は思うが、いかんせん80句のうち3句では寂しい。高橋順子とは、言葉の好みが違うとしか言いようがない。それで詩集は1冊も読まずにいる。
 
もちろん朗読は、これからも何度も続けるけれど。

(『博奕好き』高橋順子、新潮社、1998年12月20日初刷)

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