死んだ学問を生き返らせる――『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?―これからの経済と女性の話―』(3)

僕は8年前、脳出血で倒れて以来、お金を持ったことがない。「僕のお金」というのは、一応あるにはあるが、身体が不自由なため自分では遣えない。
 
そこからお金というものを、距離をおいてみると、ずいぶん違って見えてくる。たとえば汚職などする人は、正気になってみれば、こんなばかばかしいことをよくやってたな、と思うんじゃないだろうか。

「あなたがお金を欲しいと思うのは、他の人たちがお金を欲しいと思うからだ。〔中略〕みんながお金の価値を信じているかぎりは、働いてお金を手に入れることに意味がある。こうしてお金は回っている。」
 
著者は段落の最後にこういう。

「お金は社会的に構築されたものだ。金融市場は宗教によく似ている。
 すべては信じることから始まった。」
 
だから日本の1千兆円の借金も、紙屑だと思った瞬間、ほんとに紙屑になる。しかし紙屑になった瞬間、つまり日本人が正気になった瞬間、逆に肩にのしかかってくるのは、一体何なのだ。
 
でも大丈夫、この「宗教」はなかなか覚めない。

「最近みんなが何かに投資して儲けているらしい、ということがわかると、人はそこに乗り遅れまいと投資に乗りだす。そうして需要が増えると価格が上がり、価格が上がるとさらに多くの人がそこに投資する。そうして買いたい人が増えると、価格はさらに高騰する。さすがに妙だなと感じても、そう簡単に動きは止まらない。」
 
で、バブル現象が起こり、膨らみ切ったところまでくると、一斉に「売りだ!」と叫んで、パニックが広がる。
 
ほんとにこんなこと、いつまでやってるんだろう。でもこれは人間の、超えることのできない本能だからしょうがない(しかしほんとに、そうなんだろうか)。
 
今では投資の判断は、人からコンピューターに移っているらしい。数理モデルを使って、コンピューターが瞬時に複雑な計算を行ない、自動で最適な投資を実行する。「世界の富裕層が利用するアルゴリズムに基づき」という、テレビCMでやっているアレだな。

だからお金を持っている人は、どんどん財産を増やし、持たざる者との差は、限りなく大きくなっていく。

こういう資本主義は、誰が考えてもおかしいでしょう。
 
著者のカトリーン・マルサルは、断固としておかしいという。

「どうせ経済も市場も、私たちとは関係ないものなのだ。私たちが働き、生産し、工夫して生みだし、あるいは日々必要とするものなど、経済学のあずかり知るところではないのだ。」
 
なんかもう、やけくそである。これでは本が成り立たないんじゃないか。でも大丈夫。

「どんなにエレガントな数式が私たちを誘惑しようと、経済の根本にあるものは変わらない。
 それは人の身体だ。仕事をする身体、ケアを必要とする身体、別の身体を生みだす身体。生みだされ、老いて、死んでいく身体。性のある身体。人生のさまざまな局面で、誰かの助けを必要とする身体。
 私たちの身体と、身体を支える社会だ。」
 
ほとんど養老先生ですな。

しかし、それを言っちゃあおしまいよ、というのではなかったのか。「経済人」「資本家」「投資家」などは、仮にそういう人がいるとして、比喩的に言えばそういう「身体を忘れた人」が、先進国を牛耳っている、それがそもそもの問題ではなかったのか。

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