青木正美のバラエティー・ブック――『昭和の古本屋を生きる―発見又発見の七十年だった―』(3)

「3 若き古本屋の恋」は、昭和28,9年の日記から。青木正美は20歳から21歳にかけてのころ。

「8 自筆年譜」を見ると、昭和28年にはこうある。

「五月、知り合いの区内高砂町の紅文堂書店主を訪ね、古本屋開業を相談、ゴミ本数百冊を分けて貰う。」
 
このとき初めて葛飾区に、古本屋を開業するのである。
 
これは恋愛日記である。青木さんはうぶで、キスするどころか手も握れない。
 
当時、石原慎太郎の『太陽の季節』が出ていたが、あれは上流階級の青春であり、青木さんの周りでは、ここに書かれた以上のことはなかった。青木さんの家庭は極貧だった。

「4 カストリ雑誌は生きている――町の古本屋の棚にみる性風俗40年の興亡」は『新潮45』に載ったもの。ご本人の弁を聞こう。

「多分これが当時の一般庶民の性欲の吐け口の一面で、それに乗った出版界、果ては古本屋の実態であった。いつか書いておきたいと、資料も充実した五十歳の意欲作だった。」
 
こういうのは新潮社齋藤十一が、人間の暗い側面を抉ったものとして、いかにも珍重しそうだ。
 
ただ昭和31年からの『奇譚クラブ』だけは、カストリ雑誌の中でも例外である。『家畜人ヤプ―』が連載され、三島由紀夫、埴谷雄高、澁澤龍彦らが、絶賛したからだ。
 
あるときまで、その覆面作家・沼正三は、新潮社で校正をしている天野哲夫だと噂された。私は筑摩書房の社員のころ、新宿の飲み屋で彼と親しくなり、一晩徹底して飲んで朝になった。愉快なまま別れたが、それ一回きりだった。

彼は2008年に死んだ。『家畜人ヤプ―』が誰の作なのかは、結局よくわからない。

「5 下町古本屋の生活と盛衰」は、古書店主、5人を前に、青木さんが喋った記録。

この会を主宰していたのは、古書肆「弘文荘」の反町茂雄である。反町は東大を出て、初めに神田の「一誠堂書店」に就職した。東大出の古本屋小僧は、世間を驚かせた。反町が扱ったのは古典籍で、青木さんの下町の古本屋とは、世界が違っている。

反町は好奇心旺盛で、何でも聞く。

「反町 よく建場〔たてば〕建場と、一部の業者の人たちがいいますが、私などには、どうもその実体がハッキリと判らない。建場ってのは何ですか。店ですか。」
 
店ではない。一般的には「屑屋」などが集まって、その日買い歩いた品物を売りさばく、一種の問屋である。

「反町 なるほど、よく判りました。そこで屑の山の中から選り出した本や雑誌の値段を決める人は、誰れなんですか。建場の主人ですか。」
 
次の青木さんのセリフに、反町は仰天してしまう。

「青木 目方です。貫目ではかるんです。 
 反町 一貫目いくらで売買するんですか。
 青木 そうです。
 反町 内容とか、美醜とか、学問的価値とかには、一切無関係に?
 青木 そうです。中味などは一切頓着なし。」
 
これをどう考えればいいか。反町はただただびっくりしてしまう。

「反町 そりゃあ、またサッパリしたものですね。われわれは殆ど考えられない。じゃあ、本でも雑誌でもなく、ただの紙なんですね。」
 
この章は青木さんの、戦後から現代までの個人史を、古本屋の歴史を巧みに交えて語ったもので、何度読んでも飽きさせない。

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