新宿にあった店――『聖子―新宿の文壇BAR「風紋」の女主人―』(2)

聖子さんの母、林富子は結核であったが、体調のいいときは新宿武蔵野館の前の、「タイガー」というカフェに勤めていたこともある。そこで室生犀星や萩原朔太郎、そして太宰治に会う。
 
聖子さんが初めて太宰に会ったのは、昭和16年夏ころ、13歳のときである。

「母にお使いに行かされて、踏切のところで、白いシャツに灰色のズボン、下駄履きでつんのめるように歩いてくる男の人がいました。すぐ、あっ、太宰さんだとわかりました。画家を目指した母がよくスケッチで、太宰さんてこういう顔なの、と描いていましたから。」
 
富子はさっぱりした気性で、聞き上手だったから、近くに住む太宰はたびたび訪れた。恋愛関係ではなかったという。

聖子さんは太宰に、高円寺駅前の本屋で、『母をたずねて三千里』と『フクちゃん』を買ってもらったこともある。
 
終戦翌年の暮れのことである。

「太宰さんが我が家に来られて、懐からひどく真面目な顔で『中央公論』新年号を出して『これは僕のクリスマスプレゼント』と言って、雑誌をくださいました。そこに載っていた『メリイクリスマス』では私が主人公の少女のモデルで、母親が広島の空襲で亡くなった孤児ということになっています。三鷹の本屋での再会の様子が、より洗練された形で描かれていて、私はこれを読むと、ずっと昔の自分に出会うことができます」
 
聖子さんの聞き書きのかたちはとっているが、過不足のない、間然するところのない文章である。
 
聖子さんは昭和22年、19歳のとき、太宰の世話で新潮社に勤める。
 
新潮社はこのとき社員全部で30人くらい、聖子さんのいた出版部は、5人くらいの小さな部署である。前年に野平健一(京大卒)と野原一夫(東大卒)が入っているが、このときは700人受けて、2人だけが通ったという。終戦直後から、出版社は難しかったのだ。2人は太宰の担当編集者になる。
 
昭和53年に僕が筑摩書房に入ったとき、野原一夫さんは筑摩の相談役か何かをしておられた。入ってすぐに、1回だけ酒場に行った。何をしてきた人なのか知らなかったので、だからどうという話もない。
 
そのころの太宰は、聖子さんの目にはどう映ったか。

「……明るい方ですね。お酒も強かった。ほとんど冷や酒。酔っ払った姿はあんまり見たことがないです。太宰さんは売れっ子になっても威張りもせず、三鷹の屋台で一人で飲んでいたんですね。酔って歌うのは灰田勝彦の『燦めく星座』。都心には行かなかった。銀座のバー『ルパン』で撮られた林忠彦さんの有名な写真がありますが、あれはむしろ珍しいでしょ」
 
太宰の歌う灰田勝彦の『燦めく星座』と言えば、豊川悦司の『太宰治物語』を思い出す。これは田中晶子が脚本を書いた。太宰の全集を読むところから始まり、緻密に物語を作り上げていった。
 
僕はその苦闘ぶりを、近いところで逐一見ているので、これを客観的に最高の傑作とは言えない(しかし主観的にはそう言いたい)。

だから太宰の『燦めく星座』と言えば、必然的に豊悦が浮かんでくる。これは2005年の作品だが、今もときどきテレビでやっている。
 
太宰は1948年6月13日夜半、玉川上水で山崎富栄と心中した。
 
太宰は、障害を持つ長男をおいては死ねない、と繰り返し言っていた。その針が、あるとき逆に振れたのだ。
 
聖子さんは6月14日の明け方、野平健一に突然起こされ、すぐに玉川上水に違いないと思い、土手まで走って、入水した場所を突き止めたという。
 
同じ年の12月13日、母富子が永眠した。

「死の前に母富子は『太宰さんが窓の外から覗いている』とうわごとのようにいった。聖子は『もうだめだなあ』と悲しく聞いていたという。」

残された聖子さんは、まだ20歳である。

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