最高の映画――『仁義なき戦い 菅原文太伝』(2)

『仁義なき戦い』は私にとって、日本映画の最高のものだ。多分そういう人は大勢いるだろう。
 
だから喰いつくように頁を繰った。そして面白かった。その面白さについて書く。

「『俺は田舎生まれの田舎育ち』そう繰り返していた菅原文太は1933年8月16日、宮城県仙台市で生まれた。当時、父の菅原芳助は仙台市に本社を置く新聞社『河北新報』の記者で、文太は長男。1歳違いの妹がいる。」
 
文太が3歳のころ、両親が離婚する。母親が子供たちを置いて出て行ったのである。このことは文太にとって、大きな傷になったのではないか。
 
もの心つくころ戦争が終わり、母親のいない子は、親戚に預けられて苦労する。
 
文太は早稲田大学に入ったが、奨学金の2000円をもらいに行くときだけ、大学に通った。
 
最初はモデルをやり、次に「劇団四季」の第1期生となり、やがて新東宝にスカウトされる。初出演作は58年9月公開の『白線秘密地帯』で、文太は25歳になっていた。
 
この年は、石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」や、小林旭の「ダイナマイトが百五十屯(トン)」などの流行歌が流れ、三船敏郎の『無法松の一生』(監督・稲垣浩)が、ヴェネチア国際映画祭でグランプリを受賞した。
 
58年には私は5歳で、こういう歌や映画は後にリバイバルで知った。
 
その後、文太は松竹を経て東映に入る。

松田美智子は、子どものころからの苦労話も、本人が生きていればなかなか書けない話も、よく取材している。
 
文太の結婚についても記しているが、これはよくわからない。文太は初婚であり、夫人は女の子を連れた再婚である。
 
夫人は大学を出たばかりの頃に、堀辰雄や萩原朔太郎に関する著書がある。とびきりのインテリだった。
 
著者はこう書いている。「文太がかたくななまでに結婚の経緯を語らなかったのは、彼女とのなれそめが複雑だったからだろう。」これでは、ほとんど何もわからない。
 
しかし、分からないことについては、いい加減な推測を交えるのでなく、はっきり分からないと書くところは好感が持てる。
 
東映に入っても苦労は続くが、69年に飛躍がやってくる。文太は、前年の鈴木則文監督に続いて、深作欣二、中島貞夫の両監督に出会うのである。
 
その前に文太の初主演作、『現代やくざ 与太者の掟』(降旗康夫監督)がある。

その頃の東映は、鶴田浩二、高倉健、藤純子、若山富三郎の、ビッグ4に続くスターを育てようとし、候補としては梅宮辰夫、松方弘樹、千葉真一、菅原文太らがいた。
 
スター候補者たちは、みな陽性の演技は得意なのだが、「男の陰り」を表現するのは、苦手であった。なかで文太だけが、どこか拗ねているようで、色合いが違っていた。
 
そこで映画本部長だった岡田茂は、『現代やくざ 与太者の掟』を、文太にやらせることにしたのである。

岡田茂の眼は確かだった。任侠映画はもう古い。ここら辺から、「アンチ任侠映画」の可能性を、鈴木則文、深作欣二、中島貞夫の三監督と一緒に、文太は探っていくのである。

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