私も珈琲が飲みたくなる――『珈琲が呼ぶ』(2)

「小鳥さえずる春も来る」という表題は、『一杯のコーヒーから』の歌詞から取ったものだ。
 
この歌は服部良一が作曲し、藤浦洸が歌詞をつけた。調子のよい明るい歌で、懐メロだが、気楽に口ずさんできた。
 
それがそうでなくなったのは、片岡義男が発売された時を、書きつけたからだ。
 
この曲が発表されたのは1939年。国民精神総動員運動は1937年に始まっていた。
 
これはもう、日中戦争に勝ち目が無くなって、国中が狂気の世界に入りかけていた頃だ。それでもまだ、1942年のアメリカとの太平洋戦争は始まっていない。

「このような凄惨さのなかで、服部良一も藤浦洸もその日々を生きていた。戦争へと向かう国を、彼らはあらゆるかたちで感じていたはずだ。まったく反対側の世界である『一杯のコーヒーから』は、そのような歌として意図されたものだったのだろうか。明確な意図がなければ、このようにはならないはずだ、と僕は思う。」
 
気軽に口ずさんでる歌に、そういう事情があったのか。しかし世相を考えなければ、あまりに明るい歌だ。いや、そうではない。世相に反逆して、あまりに明るい歌を作ったのだ。
 
結びの一節はこうだ。

「その思いに重なるのは、この歌のレコードがよく無事に発売されたものだ、という驚きだ。『磁極柄まことに不謹慎である』というひと言によって、レコードの販売はもちろん、録音もなにもかも、当局によって禁止された可能性は充分にあった。」

『一杯のコーヒーから』という歌が、世に出てゆくまでに、どういう物語があったのか。空想は尽きない。

「辰巳ヨシヒロ、広瀬正、三島由紀夫」、という長いエッセイの中に一箇所、「僕が最初に喫茶店に入ったのは、一九五七年、十七歳の頃、下北沢のマサコだったと思う」というのがある。
 
このタイトルも、片岡義男の自伝の一片を語って興趣は尽きないのだが、今は内容には触れない。
 
それよりも「マサコ」だ。東大駒場から、井の頭線二駅で下北沢に出て、駅から歩いて五分ほどのところにマサコはあった。
 
学生時代、友だちともよく行ったが、一人でも入った。会社に入ってからは、思う女の人とも行った。それも複数の人と。
 
僕が行かなくなって、しばらくしてママのマサコは亡くなり、喫茶店の「マサコ」も店を閉じた。
 
今はまた、店で働いていた女性が、やはり下北沢の別の場所に、「マサコ」を名乗って店を出しているらしい。
 
マサコは特別な空間だった。そこに思いをやると、ママのマサコと一緒に、今はない、あの独特の雰囲気が蘇ってくる。
 
片岡義男の『珈琲が呼ぶ』は、もう一つ、写真が素晴らしい。どの写真も本文を補うだけでなく、本文と合わせて、独特の立体空間を出現させている。
 
本当はエッセイの大半をしめる、アメリカやイギリスの音楽や文学が、十全に味わえればいいのだが、僕にはそれは無理だ。
 
それでも分かった限りでいうと、とても面白かった。

(『珈琲が呼ぶ』片岡義男
 光文社、2018年1月20日初刷、2019年2月15日第7刷)

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