私も珈琲が飲みたくなる――『珈琲が呼ぶ』(1)

斎藤美奈子の『中古典のすすめ』に、片岡義男『スローなブギにしてくれ』が取り上げられている。しかも〈名作度〉★2つ、〈使える度〉★3つ。
 
けれども内容を読むと、とても手が出そうにない。ハードボイルドのオートバイ小説、だから出てくる人物の内面は描かない、あるいは描けない。
 
しかしまったく読まないのもシャクだ。
 
というわけで、最近売れているという、珈琲をめぐるエッセイを読むことにする。
 
それにしても上手な本作りだ。
 
まずオビに唸る。

「なぜ今まで/片岡義男の/珈琲エッセイ本が/なかったのか?」
 
そうだ、なぜなんだろう、と同調したら、もう取り込まれている。
 
なぜ、なかったのか。それは必要なかったから。そう答えればいいのだが、そうはいかない。ポーズをつけて珈琲を飲むなんて、片岡義男らしいじゃないか。読んだことがなくても、ついそう思ってしまう。
 
ついでにオビ裏は「ああ、珈琲が飲みたくなる。」オビの裏表が、微妙に対になっている。こういうオビは芸である。
 
最初は「一杯のコーヒーが百円になるまで」。

コンビニの淹れたての珈琲が、今は100円であるのに対し、よく行った都心のホテルは当時、860円くらい、今なら1100円くらいにはなっただろうか。

「およそ考えられることすべてを考えて百円になったコンビニの淹れたてコーヒーと、従業員の誰もがなにひとつ考えていないコーヒーとのあいだに、千円を越える格差のあるコーヒーが、東京には存在している。」
 
面白いですね。よく考えると、「従業員の誰もがなにひとつ考えていないコーヒー」は、ちょっとおかしいのだけれど、しかし幕切れが鮮やかなので、ついなるほどと笑ってしまう。

「スマート珈琲店へいくときには、御池から寺町通りを下りていく」。(「去年の夏にもお見かけしたわね」)
 
伝説の女優謙歌手が、小さい頃に、京都のその喫茶店に、しばしば来ていたという。

「とんでもない遠い過去のなかで、僕と美空ひばりとの時空間がほんの一瞬だけ交錯する想像の場所が、その席だから。十三、四歳の美空ひばりがホットケーキを食べたのは、その席だった、と僕は信じている。」
 
これは優れたエッセイである。その最後の場面――。

「京都で撮影があるたびに、美空ひばりがお母さんとふたりでスマート珈琲店へ来て、ホットケーキを食べたのは歴史的な事実だ。それ以外の部分、つまり僕が関係してくる部分は、僕が何年もかけて想像のなかに作ったフィクションだと、重ねて書いておく。」
 
本当にこれは優れたエッセイである。そして、この水準のものが何本も並んでいる。
 
次の「ミロンガとラドリオを、ほんの数歩ではしごする」は、神保町裏通りの喫茶店、ミロンガとラドリオが、それぞれ1ページのカラー写真に収まっていて、限りなく懐かしい。
 
他にも、お茶の水の駅の並びの喫茶店「穂高」や、「画翠レモン」の2階がカフェだったという話が出てきて、これはもう懐かしいではすまない。さかのぼって、じっと考えていくと、胸の奥をかきむしられるような気がする。

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