田辺聖子の名作、とまではいかなくとも、せめていい作品が読みたい。それで女房に推薦されたのが、これだった。
「うたかた」、良かったねえ。文句なしに名作だった。
街のチンピラが、正体不明の女に恋をした。あちこち連れ回すのだが、女は嬉々としてついてくる。
神戸を中心として、夜の街の猥雑な喧騒が、圧倒的な筆致で迫ってくる。
ジャン=ポール・ベルモンドが死んで、追悼で放映した『勝手にしやがれ』を思い出しちまった。あちらがパリなら、こちらは神戸だ。そしてどちらの恋も成就しない。
最後に女に向かって、「お前は最低だ」というのがパリ篇なら、神戸篇は「だまれ、ドすべた」と怒りに震えながら、静かに言う。
しかし、最後の一文はこうだ。
「人間なんてうたかたみたいなもんだ、――ただ、恋したときだけ、その思いが人間自身より、生きているようだ。」
この本には他に、「大阪の水」「虹」「突然の到着」「私の愛したマリリン・モンロウ」が入っている。
「大阪の水」は、東京から大阪に、長期の出張で来ている男と、深い関係を結ぶ女の話。男は結婚したいと言うが、女はそういう気にならない。
これを推し進めれば、ある種の自立した女の典型になったに違いない。
男は焦れて、別の女と結婚するという。女は、男といるときは愉しかったけれど、「結婚だけが勘定やあらへん」という。
「人間、自分にいちばんええように生きな、あかんわなア。あの人はあの人で生きたらええのやわ。」
いや、実に格好いいね。大阪の女とは思えない、というと差別と偏見にひっかかるかな。
「愁嘆場になるところを、すっと身をかわすそのタイミング」が、この女の素晴らしいところだ。
それほど綺麗でもなく、口数も少ない、地味な女、それが読み進むにつれて、輝きを増す。
大阪弁の女は嫌いだが、この短篇の女はよかった。
「虹」は、脚の悪い少女、つまり田辺聖子の自伝的小説。これも掛け値なしの名作である。
「わたしはごく幼いときから侮辱に敏感な、ふるえる魂をかたく抱いて大きくなったのだ。小学校へ通うようになっても、足はよくなるどころか、ますますひどくなる。」
率直な文章を武器に、どこまでも突き進む。
「そのころのわたしは人々の視線を、おのれの視線で防ごうとしていたのだと思う。わたしは年齢にふさわしからぬ鋭さで、ハッタと通りすがりの人々の眼をねめつけていくのだ。たち止まってふりかえる人々には、憤怒で身をふるわせるのだ。傲慢と卑屈は体臭のようにわたしのからだにしみつき、わたしは自分のよりどころを求めるためにやみくもに勉強した。」
「虹」は『文芸大阪』に、昭和32年に出た。これは田辺聖子の処女作である。これが、一番ではないかと思う。
(『うたかた』田辺聖子
講談社文庫、1980年1月15日初刷、1989年7月20日第13刷)
この記事へのコメント