どう読めばいいのか?――『感傷旅行(センチメンタル・ジャーニー)』

斎藤美奈子が『中古典のすすめ』に、〈名作度〉★2つ、〈使える度〉★3つで推奨していたものだ。
 
先にも書いたように、田辺聖子とは不幸な出会いがあって、これが見直す最後のチャンスと見た。
 
しかしダメだった。
 
ある時期、共産党は、日本の知識人にとって踏み石だった。この党は戦争中も節を曲げず、信念を通したのだ。戦後、すべての価値観が崩れ去った後、ただ一つ脚光を浴びたのが日本共産党だった。

野間宏『暗い絵』、柴田翔『されど われらが日々――』から、倉橋由美子『パルタイ』まで、文学者はそのとき目の前にある、「共産党」という課題と格闘した。
 
そして1964年に、田辺聖子の『感傷旅行(センチメンタル・ジャーニー)』が現れて、「共産党」に最後のダメ出しをした。これはなんと、芥川賞まで取ってしまった。
 
当時、女主人公は37歳、今ならバリバリのキャリアウーマンだが、この当時は完全な「オールドミス」。それがはるか年下の「党員」と恋に落ちた。
 
けれども「党員」の話す言葉がわからない。

プレハーノフって何なの? 弁証法的唯物論は、唯物論的弁証法とどう違うの? トロツキストっていいほう、わるいほう?
 
最初から予想される通り、この恋はドタバタの末に雲散霧消する。
 
これだけ読むと、きつい批判を含んだ佳編、という気がするだろう。
 
ところがこれがダメなのだ。
 
およそ女主人公を始めとして、恋人の党員、主人公と寝る羽目になる若い放送作家、そのた諸々の誰一人として、生きていないのだ。すべてが戯画化されており、余りのバカバカしさに、読み続けるのが苦痛だった。
 
これは「新潮現代文学」というシリーズの一冊で、「田辺聖子」が一人で収められている。ほかに「休暇は終った」「びっくりハウス」「ムジナ鍋」「文車日記」が収録されているが、巻頭の『感傷旅行(センチメンタル・ジャーニー)』を読んだだけで、他は推して知るべし、読む気がしない。
 
斎藤美奈子は〈名作度〉★2つ、〈使える度〉★3つ、としたけれど正気かね。
 
と思っていたら、『うたかた』というのは、とてもよかったよ、と横から田中晶子の合いの手が入った。
 
そうだよな、こんな駄作を量産していれば、とっくに名前が消えているはずだもの、よし、それでは次に『うたかた』を読んでみよう。

(『感傷旅行(センチメンタル・ジャーニー)・休暇は終った』、田辺聖子、
 新潮社、1979年3月10日初刷)

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