侃侃諤諤、抱腹絶倒、快刀乱麻――『蓮實養老縦横無尽――学力低下・脳・依怙贔屓』(4)

社内報をいくら続けていても切りがないから、今回でやめにするが、蓮實さんはいよいよヒートアップしている。
 
総長としての自分の仕事に、盾ついてくる集団がいるのだ。

「何に利するか見当のつかないあの勢力は、ひたすら『不快』に向けて疾走しているようにみえるのです。あれは、ある種の自殺願望ではないかと思っているのです。まあ、東大が、単に一つの大学ではないというのが非常にやっかいなところですね。これは、複数の学部の集合体なのであり、その意味で、いざという瞬間に、過去のものとなったはずの幕藩体制がよみがえってくる。総長は複数の藩の異なる利益の調整役に徹しなければならない。」
 
そうかあ、利害を調整する幕藩体制が今でも生き延びておるのか、しかも東京大学の中枢部に。でも一般には、それこそ本当に関係がない。
 
最後にお二人の講演から。

養老さんは、いつも話していることの、骨組みだけを取り出して語っている。その中心はこうである。

「おそらく皆さんのイメージは、社会には人間という実体が沢山あって、その間で言葉なり情報なりがやりとりされている、というものだと思います。私は一度そのイメージをひっくり返してご覧になってみたら、と言いたい。つまり、厳として情報なり言葉なりという硬いものが真中にあって、その周囲をふにゃふにゃな人間が動き回っている。アメーバーみたいな人間が、動いている、そういうイメージの方がひょっとしたら正しいんじゃないか。」
 
これは、ここだけ取り出してみても、わかりにくいと思う。しかし、養老さんのいくつかある、独創的なものの見方の中で、これは代表的なものだろう。
 
蓮實さんの講演では、重大なポイントはいくつかあって、それがどこへ収束していくのかは、けっこう難しい。たとえばこういうところ。

「情報化社会とは、情報をになう記号の不均衡を前提としているのです。だとするなら、私としては、むしろ、まどろんでいる記号に手をかざしてそれをふと目覚めさせてみたい。おそらく晩年にはそのような身振りを、いわば『偏愛』によって、あるいは『依怙贔屓』によって演じることが許されるだろう。私は、ここ数日来、そんなふうに思っているわけです。」
 
これは前段があって、マスメディアにおける流行を論じたものだが、まあわからないです。でも東大社内報としては、とびきり面白い。
 
先の「普遍的」と「一般的」の違いがどこにあるか、それの分かるところがある。

「いわゆる社会の混乱は、自分だけが知っているごく特定の具体的な『何々』をもとに『いわゆる何々というもの』を考えてしまいがちなところにあるわけでしょう。それを普遍的な真実の側ではなく、一般的な思い込み、すなわちコンセンサスの中にすぐに翻訳してしまう。これはいわば大衆化された情報化社会によく行われていることです。これは、すべてをわかりやすいにせの問題に翻訳する、と言ってしまってもいいかもしれません。」
 
これはわかりやすい。マスメディアは、そのにせの問題に溢れていると言っていい。しかしこれを、瞬時に見分けるのは難しい。いつもそういう構えでいないと。

「この世界の中には、ちょっと触れば変化する好ましい細部がいたるところにあるわけです。それを『偏愛』し、それを『依怙贔屓』する。自分の利益のためにではなくて、それが変化するさまを目にとめ、その変化に同調することが快いからだという流れを作らないかぎり、いくら大きく制度を変えてみても日本は変わらないと思います。」
 
蓮實さんは、そういう変化に対する感性が、これまでになく高まってきているというが、僕にはまったく信じられない。
 
けれど蓮實さんの話からは、どういう方向に向かわなければいけないか、はっきりしていると思う。

(『蓮實養老縦横無尽――学力低下・脳・依怙贔屓』
 蓮實重彥・養老孟司、哲学書房、2002年1月20日)

この記事へのコメント