粋を読む――『文学は実学である』(3)

「おかのうえの波」は、文章を書くことをめぐって、本質的で、革新的なことを言う。
 
まず文章を書くときに心がけること。

 ①知識を書かないこと。

 ②情報を書かないこと。

 ③何も書かないこと。
 
知識や情報を書かないことは、分かる人には分かろうが、3番目の「何も書かないこと」は、禅問答に似てよく分からない。
 
著者の言うことを聞いてみよう。

「文章は読者を威圧することがあってはならない。だがこれはむずかしい。文章を書くよりむずかしいことかもしれない。それには何も書かないのが一番だとすら思う。書かなければ威圧にも荷物にもならない。」
 
うーん、なんのこっちゃ。著者も、これだけではわからない、と思ったのだろう。

「以上の心がけが生まれるのはぼくが詩を書いていることに関わりがあるかもしれない。詩は知識とも情報とも無縁。『持てる』ものを排除して見えてくるものをこそ求めようとする。そうではない場所からやってくる文章に対してはおのずと、はながきくようになるのだ。」
 
やっぱり難しい。「そうではない場所からやってくる文章に対してはおのずと、はながきくようになるのだ」というところが、まったく分からない。詩人にあらざる者の口惜しさというか、悲哀というか、迷路に入ったみたいだ。
 
そこからさらに、文章が生まれてくるその微妙な端境を、丁寧に述べるが、それはかなり面倒なので、直接この本を見てほしい。
 
ただ最後に、こんなことを言っている。

「文章には、文章になる前の状態があり、そこからリズムをもらいうけて文章がはじまる。そのかくれた発祥の地点は作者の個性に関わるものだけに、もう少し話題のなかにとりいれていいかもしれない。目に見える文章やことばは分析の対象にされやすい。それはだが文章というできごとの一部にすぎない。」
 
これが最終的に荒川洋治の言いたいことなのだ。しかし「文章というできごとの一部」とは、いったい何だろうか。
 
荒川洋治には、はっきり捉まえられていることが、私にはわからない。
 
しかし、その分からないということは、分かっているわけだから、手応えはあるのだ。久しくこういう文章に行き当たったことがなかったから、非常に新鮮であった。

「編集者への『依頼状』」は、編集者にこれだけは言っておきたい、という不満をいくつか。原因はいろいろあるが、不満・憤懣の元はつぎのようなことである。

「大手の出版社の社員ともなると、同年配の作家より年収が上。だから、見下してしまう。その感覚がだらけた日常を生む。最近、特にひどい。」
 
このエッセイは1999年の『本を読む前に』に入っているから、こんなことも言えたかもしれない。
 
その後、約20年たって、大手出版社もコミックを持っているところ以外は、凋落甚だしいから、必ずしもそういうことも言えない。
 
それはともかく、一般的に昔は、原稿の依頼状は手紙と決まっていたが、今はどうしているんだろう。メールがあるし、ケータイもある。で、どうするか。考えてみると、けっこう難しい。
 
鷲尾賢也さんの『編集とはどのような仕事なのか』を担当したときは、著者に初めて連絡を取るときは手紙と決めておこう、そして筆記具は万年筆と決めておく、というのを間違いのない手として推奨してあった。私もそれでいいと思っていた。

でもどうだろう、ここ一番は手紙と決めておいて、果たしてそれでいいかどうか。
 
若い著者によっては、手紙など大げさな、とかえって敬遠されるかもしれない、そうでないかもしれない。私にはもう分からない。

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