粋を読む――『文学は実学である』(2)

「横光利一の村」は、敗戦直後に横光利一が窮乏生活をおくった鶴岡や、その近くにある温海(あつみ)温泉を訪ねた文学紀行である。そのころの苦しい生活は、「夜の靴」に描かれている。
 
私は横光利一を読んだことがない。だからこの話は、本当の共感をもっては読めない。しかし面白いところはある。
 
荒川洋治があつみ温泉に着いて。

「ぼくは木造のK旅館に泊まった。家庭的な料理が楽しめるとガイドにあるが、出てきた料理はくまなく冷えていた。
 ほぼ全品、冷えたトマトみたいにつめたいのである。まずカレイの煮たの。これ冷えていた。海が近いというのに、カレイはしょぼくれ、味がしない。さしみ。これが冷えているのはよいとして、あと、何かの大きな魚のカシラがどんとある。これ冷えていた。僕はペンギンではないのだ。」
 
いやあ、ひどいところだねえ。ところがひどいのは、これだけではなかった。

「あと、ハムのサラダは野菜が古い。煮物にいたっては、椎茸などひからび状態。期待のスキヤキは、皿を見ると、古いネギ三つ、何かの肉がヘロッとあるだけ。おばさんは、これにはこれをつけてね、あれにはあのタレをなどととても親切だが、何をつけても冷たいものは冷たいのだ。まだ七時だというのに、ごはんも冷えているのには驚いた。しんから冷えていた。」
 
これだけひどいと、むしろ笑ってしまう。著者はそういう心境になっている。

こうして「ペンギン旅館の夜はふけ」ていくのだ。

身もふたもない言い方だが、文学紀行はこういうところがないと、興味のない文学者の場合、なかなか読み続けることはできない。

「大きな小事典」の章は、子どものときに使っていた『学習必携小事典』のうち、『国語』の事典が懐かしいという話だ。
 
子ども用の事典なので、「はしがき」はあるけれど、誰が編纂したかというクレジットはない。それでも内容はいいもので、著者は大人になった今も重宝している。
 
その文学史編が面白い。文学者の生没年などのあとに、34字以内で作風が記されている。

「尾崎紅葉=内容の通俗性と手馴れた風俗描写により旧文壇に君臨した。硯友社主宰。」

この俗物があ、という対象に厳しい筆遣いである。

「葛西善蔵=実生活における貧窮と敗北を小説化することを文学の本道と信じた作家。」
 
ああ勘違いという、著者の皮肉交じりの視線が厳しい。

「高見順=繊鋭な都会人的気質を新しい散文の形式によって写し出した作家。」
 
これは素直にほめている。ちなみに荒川洋治は別の書評集で、高見順を絶賛している。
 
こういう受験用ではない子ども用の事典は、いつごろまで書店に置かれていたのだろう。この本は「新興出版社・啓林館」の発行である。
 
私は中学生のときに福音館書店の、豆本のような英語の小事典を愛用していたことを、懐かしく思い出した。児童文学の福音館にも、そんな時代があったのだね。

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