誰が編纂したのか?――『漱石先生』(2)

寺田寅彦は、誰もかけない熊本の、五高時代の漱石を書いている。(「夏目漱石先生の追憶」)

「学生の中に質問好きの男がいて根掘り葉掘りうるさく聞いていると、『そんなことは、君、書いた当人に聞いたってわかりゃしないよ』と云って撃退するのであった。」
 
セリフのリズムが、いかにも漱石らしいではないか。

「当時の先生は同窓の一部の人々にはたいそうこわい先生だったそうであるが、自分には、ちっともこわくない最も親しいなつかしい先生であったのである。」
 
たぶん寺田寅彦にだけは、そうだったのだろう。
 
学校で見るときは、「黒のオーバーの釦〔ボタン〕をきちんとはめてなかなかハイカラでスマートな風采であった。」
 
漱石を見る寺田寅彦の視線には、仰ぎ見る憧れが入っている。しかし同じ憧れでも、微妙なときもあった。

「しかし自宅にいて黒い羽織を着て寒そうに正坐している先生はなんとなく水戸浪士とでもいったようなクラシカルな感じのするところもあった。」
 
寺田寅彦は、漱石が世に出る前に、すでにして微かに、その上に浮かび上がったものに、その本質を見ている。
 
熊本から東京に帰ってからも、先生と弟子の関係は続く。

「千駄木へ居を定められてからは、また昔のように三日にあげず遊びに行った。その頃はやはりまだ英文学の先生で俳人であっただけの先生の玄関はそれほど賑やかでなかったが、それでもずいぶん迷惑なことであったに相違ない。今日は忙しいから帰れと云われても、なんとか、かとか勝手な事を云っては横着にも居すわって」いた。
 
家族よりも、漱石の懐に入っている。今日は忙しいから帰れと言われて、それでも帰らず、それで怒られないとは、いったいどんなつきあいなのか。

「夏目漱石先生の追憶」は、最後にこう締めくくっている。

「自分にとっては先生が俳句がうまかろうが、まずかろうが、英文学に通じていようがいまいが、そんな事はどうでもよかった。いわんや先生が大文豪になろうがなるまいが、そんなことは問題にも何もならなかった。……先生が大家にならなかったら少なくももっと長生きをされたであろうという気がするのである。」
 
これがつまり、寺田寅彦が、別格の弟子であることの意味なのだ。

「色々な不幸のために心が重くなったときに、先生に会って話をしていると心の重荷がいつの間にか軽くなっていた。不平や煩悶のために心の暗くなった時に先生と相対していると、そういう心の黒雲が綺麗に吹き払われ、新しい気分で自分の仕事に全力を注ぐことができた。先生というものの存在そのものが心の糧となり医薬となるのであった。」
 
漱石を送るのに、これほど弟子としてふさわしい人はいない。そしてまた、この人だけが相応しい。

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