どちらから見るか、による――『「その日暮らし」の人類学――もう一つの資本主義経済』(1)

小川さやかの『チョンキンマンションのボスは知っている――アングラ経済の人類学』は、面白いけれども、眉に唾して読まないといけなかった。
 
もちろんこれは、私の経済に関する知識の乏しさもあずかっている。
 
そこで4年前に出た、『「その日暮らし」の人類学――もう一つの資本主義経済』も、読んでみることにした。
 
だいたい4年前の光文社新書が、回を重ねて今年で6刷というのが、なかなかのものである。しかも八幡山の啓文堂に、メンチン、つまり書棚の中に背ではなく、面(表紙)を見せておかれている。なんと言うか、すごいものだ。
 
この本はLiving for Today(その日その日を生きる)という、タンザニア人の生き方を通して、日本人に生きることを再考させようというものである。
 
その日本人の生き方は、次のようなものだ。

「日本で暮らす多くの人びとは、もう長い間、その日その日を紡いでいるといった感覚とは無縁の生き方をしている。あるいは、明日どうなるかわからないといったゾワゾワを封じるために、社会全体でいまの延長線上に未来を計画的・合理的に配置し、未来のために現在を生きることがまるで義務であるかのように生きている。」
 
こういうことなら、先の英文は「今日のために今日を生きる」の方が、はっきりすると思う。

「安心・安全が予想可能性と強く結びつき、よりわかりやすい未来を築こうと制度やシステムを高度化し、将来のために身を粉にして働く。これに反する生き方は基本的に、社会不適合で『ダメな』生き方だと考えられている。」
 
これは養老孟子先生のいう、脳化社会によく似ている。ただこれを、「もう一つの資本主義」のかたちで実践すると、少し違ってくる。その話は最後にまわす。
 
次に文化人類学という学問そのものが、問題になりそうな気がしている。

「文化人類学はこの世界に存在する、わたしたちとは異なる生き方とそれを支える知恵やしくみ、人間関係を明らかにする学問である。」
 
たしかに異なる世界で、異なった暮らしをしている人がいる。しかしそれは、たんに同じ路線の上にあって、スピードが違うだけ、という場合もある。

小川さやかは、そのことは無視する。というよりも、文化人類学という学問の土俵が、そもそも共時的なもので、通時的な側面は、初めから顧慮しないような気がする。

文化人類学といえば、『山口昌男の手紙』という本を、作ったときのことを思い出す。山口さんが、東南アジアの現地調査で、現地の人を指図しているのを、冒険ダン吉を真似たマンガにした。それを見て、影書房の故・松本昌次さんが、烈火のごとく怒った。
 
日本は先の戦争で、東南アジアの人たちに、どれほど辛酸を飲ませたことか、だいたい中嶋君も、そのことが分かっていて、冒険ダン吉の絵を入れるというのが、無神経極まりない、と怒られたものだった。
 
でもこれを、山口昌男先生に問い質すというのは、なかなか酷なことだった。少なくとも私にはムリだった。

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