まったく知らない世界――『重森三玲 庭を見る心得』(5)

しかし庭を造るときには、庭園の美とは何か、というような抽象的なことばかりを、考えているわけではない。
 
例えば石について言えば、それはほとんど、職人が語ることと同じだ。

「その石が、常に私に話しかけてくるのです。私はこんな姿に立てて下さいとか、この裏を出して下さいとか、横に扱って下さいとか、石の方から話しかけてくるのです。それどころではなく、一寸この姿を見て下さいと、石が立ってくれたり、横になってくれるような気がするのです。」
 
作庭の実際を知らないものだから、ここに書かれたことは、具体的には分からない。しかし石が直接話しかけてくるのは、いかにも「職人集昔話」ふうで、読んでいて面白い。
 
もっとも、この本の全体としては、常に「創作」を押し立てていることに、変わりはない。

「庭でも花でもお茶でも、創作のみが人間に許された神からの付与だと思います。この神から与えられた特権を放棄して、マンネリズムを追っていたのでは、全く神に対して申訳がないばかりでなく、人間としての生甲斐がないことになります。」(「春眠鳥月記(喋らない庭石を喋らせる秘訣)」)
 
マンネリズムを打破する、舌鋒の鋭さは苛烈だ。とはいえ神に対して、申し訳が立つの立たないのというのは、いささか異様ではある。
 
このエッセイの勘所は、また別にあって、次のようなものだ。

「今日の庭は、既に、材料の選定から誤ったものが多いようです。庭木も庭石も、最初から、もの凄くお喋りしている材料を選ぶ人が多いのです。庭というものは、お喋りしない材料を選ぶことによって、この喋らない庭木や庭石を喋らせるのが作家の仕事なのです。」(同)
 
この辺は具体的に、何を言っているのか分からない。それでも、庭木や庭石を自覚的に選ぶことが大事なのだな、というところは何となく分かる。
 
作庭から関連して、茶道やいけばなにも、革新的な意見を言う。

「家元的制度、従って流派的制度は只茶道の上ばかりではなく、いけばなの上に於ても、舞踊その他の遊芸全般の上に於ても、日本的と言われる部類のものは、何れもこの制度が伝統の上に強く存在しているのである。だから、この家元や流派の制度が存在する限り、正しい発展は望むことが出来ないのである。」(「神無月林泉日録(今日の茶の湯のあり方)」)
 
行き着くところは家元制度否定論である。私のように、外から見ている分には、およそ空想的な気がするが。だいいちお師匠さんが、食ってはいけなくなるではないか。
 
ただ千利休は、徹底して革新的であったという。40歳頃までは、師匠に教えられた通りでよいが、それを過ぎたら、「自覚と反省とをもって、師匠が東と教えたら西を創作しなさい。山と教えたら谷を創作しなさい。その位な創作性が無ければ茶を習う意味もなく、習っても駄目だし、お茶を習う必要はない」(同)と言っている。
 
これもかなり議論を呼ぶ内容だが、現在でもこれを説く人は、重森三玲以外にいるのかね。
 
そして翻って、現代の学生の話になる。

「多くの学生、すくなくとも量的に大部分の学生達は、お茶などに見向きもしないのだが、それは当然なことであり、正しいことだと思っている。〔中略〕だが然し、この見向きもしない学生諸君も、見向きもしないことだけが賢明なのではなく、創作に乗り出すことによって、今日の自らの生活を豊富にすることこそ、更に賢明ではないだろうか。」(同)
 
理想を言えば、そういうふうにも言えないことはない。しかしこのご時世では、あまりにアナクロで、何というか答えに窮する。
 
ただ「作庭」というのが、まったく別の方向から、光が当てられることを知って、これはこれで実に面白い本だった。

(『重森三玲 庭を見る心得』重森三玲、平凡社、2020年4月15日初刷)

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