まったく知らない世界――『重森三玲 庭を見る心得』(4)

また著者は、「借景」という方法に対しても、全否定である。龍安寺や大仙院の庭は、雪が降って、美しくなるわけではない、と「林泉愚見抄(無為の宝庫)」に言う。

「借景式の庭園が明治時代から今日まで随分流行しているが、前方の山とか海とかの景を借りなくては、庭の美しいものが出来ぬようでは、作庭としてはゼロである。西芳寺や、桂離宮の庭の如く、借景を遮断してこそ、本当に傑出した庭になるのである。」
 
庭と言えば「借景」というふうに、学校で習ったものだが、借景を遮断してこそ、庭園本来の美が、そこに現われるというのだ。

「龍安寺の庭を見る人々が、土塀の外の雑木林まで入れて見るようでは、正しい庭の観賞とは言えない。それらはすべて、虎の威を借る狐に等しい訳である。」
 
すごいですね。ここまで借景というものを、全否定するというのは、一般に認められていることなんだろうか。
 
まあ私はどっちでもいいんだけれど、でもここまで全否定だと、かえって小気味がいい。
 
そして庭を造る場合、「自然主義的」に作ってはいけないという。これも、ちょっとびっくりだ。

「自然主義的な作庭は、自然美のイミテーションという心理が動くから駄目だ。別な自然の美を作ることが、むしろ造園本来の意味でなければならない。自然に似たものを作る場合は、どんなにしても、自然の美に対して勝目はない。神に従う限り、神に勝つことは出来ない。むしろ自然に勝ち、神に勝つためには、別な創作によるより他はない。」(「紫陽花林泉秘抄(薬玉飾り)」)
 
はじめの方で、自分を神の位置までもって行く、ということだったが、ここでは神に勝つにはどうしたらよいか、という話をしている。
 
重森三玲、かなりエキセントリックな人ですね。場合によっては、狂気すれすれのところまで行っているのかもしれない。
 
そういえば、ちょっとおかしいところもある。

「昨冬来から裏の畑の椿も二ヶ月近くも花が遅れている。どうも寒さのせいばかりでもない。日々好日の私にも、今年はどうも恵まれていないような気がする。でもそれは、神がもっと私を錬えようとしているのかもしれない。」(「林泉新茶月抄(春風遅くとも開花する)」)
 
それは著者の、考え違いだと思うよ。しかしとにかくユニークだ。
 
そういうユニークさが、ある本質に届く場合もある。
 
著者は、日本の庭園史の研究はかなり進んだけれど、庭園の芸術性に対する研究や、哲学的研究は、皆無であるという。

「庭園がなぜ自然の素材によって発生したのか、そして、なぜ自然の素材に今日まで依存しているのか、なぜ依存しなければならないほど美しいのか、美しいものとして受取っているのか、石がなぜ美しいと見られるのか、そしてその石を組むことによって、なぜ美が成立するのか、池庭がなぜ美しいのか、枯山水が一般になぜ喜こばれるのか。」
 
いずれも、考えたこともないテーマであり、他の人からも、まったく言われたことはない。真に独創的とは、こういう疑問を立てることである。

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