まったく知らない世界――『重森三玲 庭を見る心得』(2)

次のエッセイは、「目の高さ」と、「技術」の関係について。つまり、目と手の関係である。

「作品を作る時などは、やはり目の高いことより外に何もありません。高度な目をもつことだけで、高度な作品が生れるということは、全く決定的だと言えます。〔中略〕目の低い人が、技術だけもっていたとしますと、それは技術だけが過剰になって、全く見られないものになってしまいます。」(「手掛けることの大切さ」)
 
そういうことか。文章の方では、眼高手低とかいって、目だけがよく見えていても、技術がついていかないと、どうしようもない、といわれたものだけれど。

この一篇の勘どころは、できるだけ苦心をし、苦労をするのがよいということ。

「自ら進んで、何事も苦労をすることほど、自分をみがくことはないと思います。みがきの掛ってない人間は、人間としての深さが足りないと思います。」(同)
 
なんだか、車谷長吉を思い出す。あるいはシモーヌ・ヴェイユか。どっちにしても、そうスパッと言い切ってしまっては、ははっ、仰せのとおり、と言うしかない。
 
具体的に庭を造る、つまり作庭する、ということに関しては、次のように言う。ちょっと、びっくりである。

「作庭と言うことは、最高最大の芸術品を作ることであり、神に代って自然を作ると言うか、時には神と共に創ると言うことである。自然は神が作った偉大な美的存在であるが、神の作り残した或る美の創作を、神に代って作るのが庭園だとも考えている。だから、私は何時も作庭している時は、神に成り切ったような態度と言うか、神としての存在にまで自分をもって行っているのである。」(「作庭の楽しみ」)
 
うーん、大丈夫か。たしかに優れた芸術家は、常人の及びもつかないくらい高みに飛翔する、とは思うけれど、でも「神に成り切る」のは、どうもなあ。
 
しかしこの著者が、神を信じていることは分かった。
 
そしてその神の高みに、容易に(かどうかは知らないが)、著者は肩を並べ得る、と考えていることも。

「だからこそ、私にとって作庭ほどたのしいことはないのである。」(同)
 
うーん……ばかりだけれど、とにかく先へ進もう。
 
作庭には、同じ芸術といっても、ほかにはない要素がある。それは依頼主の存在である。

「〔作庭のときの〕一番大切な条件とは、何よりも依頼者が、より高度性をもっていることである。金のことも大切だし、期限のことも大切だし、主人が文句を言わぬことも大切ではあるが、それよりも、依頼者の文化性と言うか芸術性と言うか、理解力と言うか、とも角高度性のあることが一番大切な条件であって、作者が如何に努力しても、依頼主の高さだけの作庭しか出来ない。」(同)

それは言ってみれば、ルネサンスのころの、メディチ家のようなパトロンがいて、そのパトロンの目の高さにしか、庭を造ることはできない、というのだ。
 
しかし仮にそうだとしても、いま、そういうパトロンを想定しうるだろうか。これはせいぜい、明治・大正、さかのぼって考えても、昭和の戦前までが、いいところではないか。
 
身もふたもない言い方だが、戦後の税制の問題がある。

しかしそれなら、重森三玲はどういうパトロンを持っていたのか。非常に気になる。

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