時事ネタの批評は難しい――『コミュニケーション不全症候群』(3)

ここから中島梓は、彼女自身が創設した「JUNE(ジュネ)小説」、といったジャンルを経由して、まとめに入る。

「JUNE(ジュネ)小説」とは、と言っても、男の子が出てくるホモ小説、という程度のことで、僕にはよくわかりません。
 
こういうホモ小説は、拒食症の少女たちには、現実を拒否するという意味で、親しいものだという。

「JUNE世界のなかでは、不器量であること、肥満、もてないこと、は最大のおそるべき罪である。」
 
なるほど。でもこれは、現実の表層を撫でてみることすらしない、実にくだらない嗜好だ、とは思わないだろうか。

「彼女たちが拒否しているのは、彼女たちがあいそをつかしてしまったこの現実でしかありえないのだ。そしてその、理想化され、清潔に、生活のみにくい側面ややっかいごともなく、老いることも中年のいぎたないオバン、オジンになることもない、時の止間ってしまった宇宙こそ、おタク、拒食症、モラトリアム青年、そういったコミュニケーション不全症候群の男女すべてが共通して恋いもとめる――その方法がさまざまに異なると言うだけで――究極の世界なのである。」
 
言葉で描くと、もっともらしく聞こえるが、そんな世界は、実に退屈だ。しかし30年前、僕はこの文章に、共感していたに違いない。きっとまだ、現実の世界のかけらも、味わってはいないころだ。
 
ただこれに続く文章は、大事なことを言おうとしている。

「彼女たち、彼らの本当に欲しているのは、失われた母の胎内の全能感であるのだということができる。」
 
この「母」は、文字通りの母であって、中島梓は母との関係で、抜き差しならない関係を抱えていた、ということが今岡清の本に出てくる。
 
しかし、それがどういう関係であるのかは、今岡清の本でも、中島梓の本でも、書いてないので分からない。
 
この本の終わりは、こういう一節である。

「大切なのは勇気だけである。――コミュニケーション不全症候群のための処方箋はただそれだけだ。自分を直視すること、自分の苦しみを認識すること。そしてそうするだけの勇気を持ち続けることである。我々がどうやら二十一世紀を迎えることができるためには、我々はただ、ほんのちょっとだけ勇気があればいいのである。」
 
これは、中島梓の自戒の言葉、自分を励ます、ささやかな言葉なのだが、今となってみると、最初の一歩がなかなか踏み出せなくて、必死で自分を鼓舞している若い女性を思い浮かべて、あまりにもいじらしいのである。

(『コミュニケーション不全症候群』中島梓、ちくま文庫、1995年12月4日初刷)

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