「火垂るの墓」の真実とは――『「駅の子」の闘いー戦争孤児たちの埋もれてきた戦後史ー』(2)

戦争が終わってから、「駅の子」の闘いが始まった。

内藤博一さんは、母に連れられて三宮駅に来た。母は毎日どこからか、一人分の食糧を持って来てくれた。ときにはゴミ箱を漁ることもあった。そうしてそれを内藤さんに与え、自分は何も食べなかった。

だから栄養失調にかかり、どんどん細くなっていって、そのまま死んだ。
 
内藤さんは、後に妹を引き取りに行って、三宮の闇市で、妹を食べさせるために物乞いをしたり、ときには盗みをしたりした。

「もう悪に関しては絶対やらないと食べられへんしね。悪いとは分かっているんだけども、妹と二人で生きていくためには、そうしないといかんと思ってね」。
 
内藤さんは、母が亡くなった三宮駅の構内にだけは、今も気持ちの整理がつかず、どうしても再訪することができないと言う。

「あそこだけは、いまでも足が向きませんし、私はいまだにこの戦争が終わった、平和やなという気持ちは持ってません。持つことができないんです。」
 
内藤さんは市営バスの運転手として働き、いまは定年退職をして、地元小学校の野球の監督を務めたりしている。
 
そういう人の内面では、戦争は終わっていない、終えることができない、ということだ(そういう人はもちろん、「駅の子」に限らず、人には言わないけれど、大勢いる)。

そもそも「駅の子」は、どのくらいいたか。厚生省が昭和23年2月1日に行なった、「全国孤児一斉調査」によれば、12万3511人という数字が残されている。
 
しかしこれは、戦争から3年後の話だし、住所不定の子どもたちを、どういうふうに把捉したか、大いに疑問である。

戦後すぐに、「駅の子」はどのくらいいたか。これは全くわかっていない。
 
上野の地下道では、「駅の子」は次々に死んでいった。金子トミさんは、いまでも、周りで飢えに苦しんでいた子どもを、助けることができなかったという、自責の念に苛まれる。
 
金子トミさんも「駅の子」だ。自分の食糧は、他の子どもからは、見えないところにいって、こっそり食べた。食べ物がなくて、空腹に苦しんでいる子は、衰弱し、動けなくなり、死んでいった。

「本音を言うなら、たとえ1日1個でいいからおにぎりくらい配ってほしかったですよ。なんででしょうね。戦争孤児が戦争を起こしたんじゃないんだから。政府がやったんだから。それなのに何にも政府は……。毎日死んでいくんですよ、子どもが。食べなきゃ死んじゃいますよね」。
 
ほかにも学童疎開の話をはじめ、もっと悲惨な話がある。でも、もう書かない。というか、もう書けない。後は本文を読まれたい。
 
ただ、アメリカの公文書館に残されていたGHQの、1946年9月9日付の内部文書だけは見ておきたい。
 
そこには、戦争のために浮浪児となった子どもたちが、各地で悲惨な状況にあることに対して、「日本の官僚の歴史的な無感覚無関心さがこの種の活動において、職員、食料、設備の不足よりもさらに障害になっている」とある。

「児童福祉行政をリードするべき官僚たちの意識の低さこそが、致命的な障害になっている」という厳しい指摘である。
 
この国は、戦争中から現代にいたるまで、まったく変わっていない。それは、昨今のコロナ騒動を見てもわかるとおりだ。

(『「駅の子」の闘いー戦争孤児たちの埋もれてきた戦後史ー』
 中村光博、幻冬舎新書、2020年1月30日初刷)

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