1998年11月、ルノーの副社長だったゴーンは、日産と提携するために、初めて日本でプレゼンテーションを行なった。
「三時間のあいだ、私の頭の中は伝えたい事実と数字でいっぱいだった。そんな様子がある種の感銘を与えたのかもしれない。この会議で日産の人々の頭の中に何かが誘発され、ルノーの提案にはどこか説得力があると感じさせたのではないかと思う。」
こういう光景は、頭に絵が浮かぶようだ。「どこか説得力があると感じさせた」、どころの話ではない。たぶん皆、圧倒されていたはずだ。
こうして1999年3月27日、日産とルノーは、「ルノー日産グローバル・アライアンス」の合意文書に調印した。
「ルノーは契約に従って日産自動車に六四三〇億円(五四億ドル)の資本投資を行い、見返りとして日産株の三六・八パーセントを保有することになった。この契約には、ルノーがいずれ出資比率を四四・四パーセントまで増やすことができるとする条項が含まれていた。」
ここは数字ばかりで煩わしいと思うが、要するにルノーは、日産に金を出す代わりに、株を買い占めることができたということだ。
しかしこれは、日産がルノーの子会社になる、ということではない。それが、平等の立場で結ぶ「アライアンス契約」というものだ。
見ようによってはこれが火種となって、後のマクロン大統領は、折あらば隙を見て、日産の高い技術を、ルノーの傘下に収めようと思ったわけだ。
日本では考えられないけれど、大統領が経営者のボスとして出てくれば、一波乱おきるのはしょうがない。
話は戻って、ゴーンは1999年3月に日本に来たが、そのとき不思議な気持ちになった。これは、やったことがあるぞ、と。
「収益性の欠如、過度のマーケットシェア志向、混乱、不透明な責任の所在。問題は数え上げたらきりがないほど山積みされていた。しかし、いずれも私にとっては馴染み深い問題だった。」
これは、デジャ・ヴか、シンクロニシテイか?
「いままでやってきたことはすべて、まさにこの瞬間のための修行だったのだ。会社再建、組織再編とリストラ、社員の意識と行動の変革、二つの企業文化の融合と異文化マネジメント。規模は小さかったとはいえ、どれもこれまでやってきたことだ。」
ゴーンはまさに、おあつらえ向きの舞台を、用意されたのだ。
しかしこれを、日産の方から見ればどうだろう。
「日産の根本的な問題は、経営陣が方向を見失い、利益を上げるためになすべきことの優先順位を見失っていたことにある。利益に焦点を合わせることも、利益を上げるために社員を動機づけることも軽視してきた。顧客満足も重視していなかった。クロス・ファンクショナルなチームワークもなければ、海外進出にあたって国民性の違いを調整することもなかった。……本当の意味での切迫した危機感も見られなかったのである。」
これは、このときのゴーンの述懐だが、本にしてここまで書くかね。とにかくゴーンは率直な人だ。でも日本側の経営者にして見れば、ほとんど全員クビだろう。
ゴーンはこうして、「日産リバイバルプラン」を策定し、それを実行することによって、劇的に復活を遂げたのである。
つぎに、「私の履歴書」を読むわけだが、20年弱を経て、ゴーンはどういうふうに変わったのか、あるいは変わらなかったのか。
(『ルネッサンスー再生への挑戦ー』カルロス・ゴーン/訳・中川治子
ダイヤモンド社、2001年10月25日初刷、11月5日第3刷)
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