24人の作家論――『偏愛的作家論』(3)

この24人の中で、久生十蘭の短篇などは、もう読まれることはあるまい。一時期、僕が学生のときには、熱心に読んだものだ。
 
全集も、三一書房、社会思想社、国書刊行会から出版されていた。いかに全集が売れる時代とはいえ、尋常のことではない。

そういえば『久生十蘭短篇傑作選』というのが、何巻か忘れたが、河出書房から出ていた。岩波文庫でも『久生十蘭短篇選』が、これは一冊本だったが、出ていた。
 
久生十蘭はスタイリストであった。

「スタイルのために骨身をけずることこそが、作家にとっての本当の意味での倫理なのであって、人生の求道やら何やらを作品のなかに持ちこむことなどは、要するに田舎者の小説家の勘違いに過ぎない」。
 
学生の頃は、そうだ! と思っていた。もちろん澁澤も、スタイルこそ命を懸けるにふさわしい、と思っていただろうと思う。
 
僕はこのごろでは、スタイルに骨身を削ることは、その作家の、それこそスタイルとしか思わないけれど。

「人生の求道やら何やらを作品のなかに持ちこむ」ことも、その作家の力量によっては、素晴らしく面白くなる。これは当たり前のことだ。
 
なお澁澤は、『モダン日本』の原稿をもらいに、しばしば自宅に足を運んだことがあり、また疎開先の銚子から鎌倉に引っ越すときに、手伝いに行ったことがある。スタイリッシュ久生十蘭に、一方ならず肩入れするのは、大変よくわかる。
 
この本を読んでいて、「世界三大推理小説」が、日本にあることを思い出した。まあ、半分はホラだが、半分は本気である。
 
夢野久作『ドグラ・マグラ』、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』、中井英夫『虚無への供物』が、それである。
 
いずれも、推理小説という枠組みを借りた、突き抜けた傑作になっている。読めば圧倒される。読書経験の、究極のもの。あなたが読書をしていても、この3冊を読んでないならば、結局、読書という経験はなかったのだ。
 
さて全部を読んで、最後に蛇足に近いものを付け加える。
 
こういうエッセイ集を編むことは、今はもう不可能に近いと思われる。
 
澁澤は「あとがき」に書いている。

「『偏愛的作家論』と名づけたが、『作家論』のタイトルはやや羊頭狗肉で、書評、推薦文、月報やパンフレットに載せた、ほんのデッサン程度のものでしかない短い文章もある。この点は御寛恕を乞いたいと思う。」
 
残念ながら、もう今の読者は、「御寛恕を乞いたい」と願っても、許しはしないと思う。そういう本づくりは、すでに過去のものなのだ。

(『偏愛的作家論』澁澤龍彥、河出文庫、1997年7月4日初刷)

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