末木先生以外にはない――『日本思想史』(3)

大伝統から中伝統へという、本書の大部分を占める歴史記述には、面白いところも多々ある。

「最澄や空海が築いた世俗と仏法の関係は、それぞれが独自の世界を持ちながら、相互にとって必要不可欠という関係を結ぶというものであった。その関係構造は中世を通して、より成熟した形で継承されていくのである。」
 
この辺りは日本思想史という、巨視的なパースペクティヴを視野に入れてなければ、言えないことだろう。
 
高野山の一山寺院を、実際に見た後では、なぜあんなものを作り上げることができたのか、そして、それに対応する朝廷の大きさと、そこからの距離の取り方を巡って、いろいろ考えさせられた。
 
そういう巨視的なところだけではなく、所々に忍び込ませてある、末木先生の呟きが面白い。

「戦後、保田〔輿重郎〕は戦争を鼓舞したイデオローグとして一身に罪を背負わされたが、実のところ、彼の評論は戦意を高揚させるようなものではなく、むしろ厭世的な気分に満ちている。保田が共感をもって描き出したのは、はかない日本の美であり、敗残者の精神であった。勇ましい政府の掛け声の影で、保田か戦争期の精神的支柱になったのは、はじめから無理な戦争に若者たちが死にに行かなければならない不条理な状況ゆえであった。」
 
保田輿重郎は、「日本の橋」以外は読んだことがない。後方にいて、戦争をけしかけた「悪い奴」という印象が強すぎて、何も読まなかった。
 
末木さんの記述を読むと、いかにもそういうことがありそうな気がする。ちょっと読んでみようかとも思うが、でもなあ、日本浪漫派は嫌いなのだ。
 
あとは、悪名高き「近代の超克」である。
 
これは大学に入ってすぐ、西川正雄先生のゼミで取り上げられたことがある。西川先生はヨーロッパの近・現代史が専門なのに、このときは第二次大戦下の日本がテーマであった。
 
それで必要な文献はざっと読んだ(と言っても、大学の一年生が読むのだから、知れたものであるが)。

「京都学派の哲学者だけでなく、文学者や音楽家なども含めて開いた座談会『近代の超克』は世評に高かったものだが、今日読み返してみると、危機感に乏しい雑談に終始し、当時の思想界(と言えるだけのものがあったかどうか自体が分からないが)の限界を露呈することになった。」
 
ぼろくそですな。

しかし、出版という業界に入ってみると、総合雑誌の座談会などはこの程度の、中身のないものだということがよくわかる。それに「思想界」というものも、いまでもあるのか、きわめて怪しいものだ。

1942年の9月といえば、日本が負けだしてすぐの頃、たぶん大本営発表で、戦争の現状を知らされてないときだろう。

河上徹太郎先生以下の参加者は、気楽にしゃべってください。『文学界』がそう言うから参加したのに、という嘆き、不満が聞こえてきそうだ。
 
最後の十二章は、「平和の理想と幻想」という題である。そこにもすでに、先生の批判がある。

「戦後憲法の中心原理である主権在民と平和主義のいずれもが普遍性をもった原理であることを宣言している。(中略)普遍的原理であれば、いつでもどこでも通用しなければならないから、そこには歴史性や特殊性が入り込む余地はない。戦後の小伝統は、中伝統とも、ましてそれ以前の大伝統とも断絶した普遍性に基づいて築かれる。」
 
しかし冒頭の第一条は天皇制から始まっている。このあたりが、日本の旧勢力とGHQの、妥協の産物である。
 
ことほどさように、この本は中に踏み込んでいけば、いろんな側面で議論ができる。

誰もやらないなら私がやるという、末木文美士先生の最大の狙いは、まずは当たったといえよう。

(『日本思想史』末木文美士、岩波新書、2020年1月21日初刷)

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