末木先生以外にはない――『日本思想史』(1)

今どき岩波新書で、通史で日本思想史を書こうとする人など、末木文美士さん以外にいるはずがない。
 
末木先生には、これの前に、岩波新書で『日本宗教史』というのもあった。これはタイトルを見たときは、凄い度胸というか、ちょっと狂気の沙汰だなあ、と思ったけど、読んでみると、実に内容が濃くて傑作だった。
 
そしてこんどは、『日本思想史』である。ついつい期待してしまう。

「長い間、日本人にとって過去の自分たちの思想は、まともに考えるべき対象とはされてこなかった。思想や哲学と言えば、西洋から輸入されたものを指し、最新流行の欧米の概念を使って、その口真似のうまい学者が思想家としてもてはやされた。」

「はじめに」の冒頭、これは強烈である。欧米の最新流行の「口真似のうまい学者が思想家としてもてはやされ」る、と。
 
これは最初から喧嘩腰だ。誰とは言わず、たちまち数人の、かつて売れっ子だった人たちの顔が、頭に浮かぶ。

「ところが困ったことに、ここ二、三十年、欧米の思想界も行き詰まり、輸入すべき最新の思想が枯渇してきた。時代は大きく変わり、日本国内も、そして世界も、あらゆる問題が一気に押し寄せてきて、誰もが右往左往している。もはや表面だけの格好いい思想では済まなくなっている。……それは、お仕着せではなく、自分自身の過去をしっかり踏まえ、そこから必然的に湧き上がってくる思想でなければならない。」
 
というわけで末木さんが、通史を書き上げることにしたのだ。
 
とはいうものの、日本思想史を構想するのは難しい。
 
末木先生はまず初めに、日本の思想史を貫くものとして、「王権」と「神仏」を両極に置き、文化や生活が、その両極の緊張関係の下に営まれる、という図式を置く。

「このような思想史の構造は、近世までの前近代においてもっともよく当てはまる。それに対して、明治維新後の近代においては、それまで両極に分かれていた王権と神仏の要素が天皇を中心として一元化される。そのような体制はまた、戦後に解体され、西洋的な近代の民主主義の理念が根底に置かれるようになる。このように、日本の思想史は大きく三つに分けて考えることができる。前近代と近代と戦後である。それをそれぞれ大伝統・中伝統・小伝統と呼ぶことにする。」
 
問題は最後の一文である。大伝統・中伝統・小伝統は、果たして大・中・小という具合に、曲がりなりにも連続しているだろうか。
 
とくに戦後の小伝統は、いちばん問題ではないか。しかし本書は、そこはうまく切り抜けている。

「本書は、紙数の関係から、小伝統以後については簡単に触れるだけにとどめ、別の機会を期することにしたい。」
 
末木先生のもともとの専門が仏教史なのだから、これは仕方のないところだろうが、しかし最初から読者をトリコにしておくためには、思い切って戦後の小伝統から、始めるべきではなかったか。
 
そんな無茶な、という末木先生の声が、聞こえてくるような気がするが、それでもやっぱり、そういう選択肢は、あり得たのではないかと思う。

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