思わず口ずさみたくなる――『ラストダンスは私にー岩谷時子物語ー』(3)

1964年の暮れ、岩谷時子は第6回日本レコード大賞で、「ウナ・セラ・デイ東京」と「夜明けのうた」の2作品で、女性として初めて作詞賞を受賞した。

「1965(昭和40)年と1966(昭和41)年は、歌謡曲だけでも年間50曲近く作詞している。その他にミュージカル、リサイタル、CM、テレビ番組……ほぼ毎日が締切りだった。」
 
こういう感覚は、当事者でなければわからない。出版の方では、昔は「流行作家」と呼ばれる人種がいて、座って書くと眠ってしまうので、立って書いたそうだが。
 
ちなみに岩谷は、どのくらい稼いでいたかというと、「今月も著作権協会からは印税215万円が振り込まれていたが、もう通帳に印字される金額にも驚かなくなっていた。」
 
僕の計算では、怪しいところで申し訳ないが、今ではざっと4倍強くらいだとして、毎月1千万円近い印税が、入ってくる計算になる。
 
これはもう日常を超え、リアルを超えた、通帳の上だけの数字ですね。
 
岩谷は第8回レコード大賞で、「君といつまでも」と「逢いたくて逢いたくて」で、2年ぶり2回目の作詞賞を受賞した。「逢いたくて逢いたくて」もいい曲だった。
 
1968年には、いずみたくとのコンビで、新人のピンキーとキラーズのために書いた「恋の季節」が大ヒットし、これは270万枚が売れた。
 
69年には、佐良直美が歌った「いいじゃないの幸せならば」(作曲・いずみたく)が、第11回レコード大賞を受賞した。
 
これは「スキャンダルを執拗に追い回す昨今のマスコミに対して、時子自身の口から思わずこぼれたひとことだった」、というのが可笑しい。
 
そういえば佐良直美のデビュー曲、「世界は二人のために」も、いずみたくと岩谷時子のコンビではなかったか。僕はこの歌が、あっけらかんとしていて、好きだった。
 
著者は、坂東玉三郎と岩谷時子との、仕事を通じた友情にも、よく筆が届いている。

玉三郎のアルバムのタイトルは「春の鏡」、これは楽曲ではない。1973年、玉三郎23歳の誕生日に発売された、岩谷時子との共作で、14篇の詩を収める。
 
この仕事で、34歳の年の差を越えて、稀有な友情が育まれ、そして長く続いた。どちらも、溢れるばかりの才能があり、その場合に年の差は、まったく問題ではなかった。
 
もちろん、越路吹雪との、曲折を経た友情物語が、この本の柱であり、それは実に読みごたえがあるものだ。

しかしそれを脇に置いといても、こんなに話題がある。そういうことを言いたかったのだ。
 
岩谷時子は90歳を超えるまで、現役の作詞家として活躍した。これも驚くべきことだ。そして2013年、97歳で亡くなった。
 
最後に編集部に文句を言いたい。これは編集者が、まったく仕事をしていない。例えば254ページから次のページにかけて。改行の1字下げが、1.5倍下げになっている。あるいは234ページ、改行が天ツキになっている。組み体裁は、最初に編集者が気をつけるべき、初歩の初歩ではないか。
 
また三島由紀夫が、越路吹雪の推薦文を書いていて、「そこに彼女のセックな持味があり」というところ。「セック」は「シック」かどうか、よくわからない。あるいは「セックスの持味が」、かもしれない。

だいたい三島のこの文章は、全体としてよくない、と見当はずれの文句まで付けたくなるほど、ひどい。
 
装幀もひどいものだ。女二人がなにものであるのかが、全く分からない。もちろん一人は越路吹雪だが、それはどこにも書いていない。
 
帯の表と裏も、そっくりそのまま入れ替えなければダメだ。表には岩谷時子がどういう人かが、まったく書いてないのだ。
 
こういう力作を村岡恵理が書いても、何にもならない、実に虚しい。光文社の校閲は、たぶん崩壊している。装幀部(あるいは制作部)も機能していない。
 
光文社のような大手が、単行本を作れなくなっているということが、今の出版界の惨状を、如実にあらわしている。

(『ラストダンスは私にー岩谷時子物語ー』村岡恵理、光文社、2019年7月30日初刷)

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