篤実な評伝だが――『江藤淳は甦える』(5)

ほかに印象に残るところを引いておく。
 
1963年7月、江藤淳はアメリカ留学をいったん切り上げ、日本に戻ってきた。

プリンストン大学で、日本文学の客員助教授に就任していたので、慶子夫人は、アメリカに残したままである。このとき江藤は30歳。
 
3週間の滞在で、慶子夫人に5通の手紙を出している。これがなかなか面白い。

「とにかく、東京は働きさえすればアブク銭はとれるところだし、帰ったあとも慶応に先生の口がありそうで、朝日も講談社、新潮社もみな特別に親切だから、少々頭金が減っても心配はあるまい。那須の土地は現在一万からしていて、来年夏には一万四、五千円にはなるだろうとのこと。これは君のおかげで本当にいい買物をしておいたと思う。」(第四信)
 
ここでは、那須に土地を買ったら、と言った慶子夫人に、素直に感謝している。プリンストンの日本文学の少壮助教授としては、そんなところに手が回るわけがない。賢夫人の支えがよくわかる。
 
最後の5通目は、江藤の、妻を思う愛情にあふれている。

「『週刊新潮』のグラビアにとった写真の残り(といってもいっぱいあるが)のうちいいものを伸してもらい、そのトン〔慶子夫人のこと〕の顔を毎晩見ている。そうすると朝から晩まで人に逢いづめに逢い、その合間に本のリストを集めに出、雑用を片づけ、という暑い湿気の多い東京の疲れがすうっととけて来る。それからベッドにはいり、トンのことを思い、トンのオッパイやあそこを思い出しながら、毎晩(でもないけれど)自分でする。トンしかパウ〔江藤淳のこと〕には愛している女はいないよ。トンのいない東京なんか、やかましいばかりで何の未練もありはしない。」
 
なかなかストレートである。二人の秘め事が、よもや晒されるとは思ってもいない。毎晩ではないが自瀆をするというあたり、江藤も30歳と若いのだ。
 
そしてこういうところは、著者が編集者として書き起こしたものではない。とにかく全部をさらけ出そうとしている。
 
そういう書きぶりは、たとえば車谷長吉のところにも覗える。

「さらなる例外は、昭和三十九年に慶大文学部に入った車谷長吉だろう。入学直後に江藤の『西洋の影』を読んで感嘆し、次々と江藤を貪り読んだ。江藤が非常勤講師で教える講義で、車谷は自分の文学観をつくった。『私が慶応義塾に学んだのは、たまたまこの講義を聞くことが出来たことによってのみ、至福であったと言うても過言ではない』(「殉愛」「文學界」平11・9)。車谷にとっての江藤は、江藤にとっての井筒俊彦という存在だったのだ。車谷のケースは、慶応というローカル色を感じさせる。」
 
車谷が江藤淳に私淑したのは、何かの間違いだと思われる。「文藝賞」に田中康夫を強力に押す江藤淳を、車谷長吉はどんな思いで見ていたろうか。
 
しかし問題は、そんなところにあるのではない。最後の一文、「車谷のケースは、慶応というローカル色を感じさせる」である。
 
これは単に、事実の一環として書いたものだとしても、読みようによっては、江藤を、きつい言い方をすれば、貶めてはいないか。ここにも、編集者を飛び越えた、著者の自己主張が出ている。

この記事へのコメント