篤実な評伝だが――『江藤淳は甦える』(4)

大学生で『夏目漱石』を書き上げた江藤淳に対して、出版記念会が開催された。このとき集まった面子が興味深い。

「『夏目漱石』のささやかな出版記念会が行なわれた時、『三田文学』に書いていた東大英文科出身の秀才たちも顔を出した。丸谷才一、篠田一士などである。丸谷は『三田の西洋かぶれも、ここまで来れば本物というほかありません』とスピーチしたが、江藤がこの時に攻撃を仕掛けていたのは、丸谷や篠田の御本尊である『世界文学』であった。江藤の『フォニー』批判はこの二十年後のことだ。」
 
ここだけ読むと、訳が分からないかもしれないが、ここでは丸谷才一や篠田一士と早くも交流があること、そして行く行くは、文学を巡って深刻な対立を生む土壌が、こんなにも早く醸成されていた、ということが分かればよい。
 
また、これも学生のとき、「三田文学」に「現代小説の問題」を載せている。これは江藤の、散文に対する興味という点で、見逃せない。

「明治以降の作家で、『真に散文的な文体を持っていた作家』は漱石であり、志賀直哉は散文詩に近く、三島や芥川は美術工芸品に堕落している。小林秀雄の批評は『一種の詩語』であって、『通常の生活人には理解しがたい』。翌年に書かれた『近代散文の形成と挫折』での、福沢諭吉の『本質的に口語的な散文』への最大限の評価を合わせると、江藤の散文観が集約される。」
 
大学を出るか出ないかの頃だから、江藤の「散文観」がどういうふうに変化するかは、わからないけれど、しかしここだけ見れば、実に健康的である。

健康的で、あまりに通俗的でもあるが、しかし漱石の散文をもって、比べるものが無いとしたのは、それはその通りで、江藤淳の出発点は的を射ていた、実に堂々としていた。
 
江藤淳は大学院一年生のとき、同じ慶応で仏文科の、三浦慶子と結婚し、またこのとき、「文學界」に『生きている廃墟の影』を書き、文芸誌デビューを果たしている。
 
デビュー作に、いきなり60枚を書かせるのも、期待の大きさが分かるが、このとき、同じ誌面を飾っている作家たちを見れば、年代が上の読者には、込み上げてくるものがあると思う。

「六月号の目次には遠藤周作『海と毒薬』、菊村到『硫黄島』(芥川賞を受賞する)、曽野綾子『婚約式』といった小説、有吉佐和子、石原慎太郎、小田実、小林勝、富島健夫という五人の昭和生れ作家の座談会『「新人」の抵抗』と並んで、江藤淳も大きく出ている。」
 
こういう時代と今とでは、同じ文芸誌であっても、まったく別物の感じがする。
 
江藤淳はその後、西脇順三郎との確執もあって、慶応の教授になることは諦めて、ジャーナリズムの世界に打って出る。
 
それは華々しい活躍で、20代で、ほとんど大家として迎えられている。

その後、埴谷雄高から小林秀雄、あるいは三島由紀夫らと付き合い、その舞台は大きなものになっていくが、それをもって『江藤淳は甦える』か、と問われたら、それはその時代のこと、今となっては歴史の一場面に過ぎない、というだけである。

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