篤実な評伝だが――『江藤淳は甦える』(2)

この「評伝」は非常に詳しく、また後で書くけれども、書きにくいところにも筆が及んでいて、飽きさせない。
 
そして、こういうところは、ちょっと息をのむ。

「この対談が終わった後、江藤淳が洩らした一言がある。松本健一は『SAPIO』の没後十年の江藤淳特集で江藤の言葉を記している。
『私は昨日の夜中、夢を見た。昭和天皇が枕元にお立ちになって「江藤、首相をやってくれ」と大命降下があった』
 松本は亡くなっているので、夢の詳細はわかりようもない。江藤なら大命を拝辞することは絶対ないだろう。」
 
ここを読めば、たいていの人は驚くんじゃないか。
 
江藤淳は、早くに亡くなった祖父の海軍大将をはじめ、海軍閥に囲まれた家柄だった。

「二・二六事件の時に襲撃された首相は岡田啓介、殺された内大臣は斎藤實だった。『〔江藤の〕祖母は彼らを個人的に知っていたのである』(「文学と私」)。江頭〔=江藤の実の苗字〕家は当主を失った後も、そうした家であった。
『祖父の生涯が、明治日本の中枢と直結し』、『戦前の日本の基礎を形成するのについやされた一生』であり、『自分と国家の距離が近いことを感じないわけにはいかな』い環境だった。」
 
特に最後の一行、「『自分と国家の距離が近いことを感じないわけにはいかな』い」、は重要である。
 
私はたぶん、こういうところが嫌で、江藤淳の書くものと、距離を取ったのだと思う。

そのころは、江藤がどんな出自か、まったく知らなかったけれど、こういうことは、自然に文章に表われるものだ。

「群像」に寄せた「戦後と私」というエッセイで、江藤淳は、20年ぶりに訪れた「故郷」、新大久保界隈のことを書いている。
 
昭和40年といえば、新大久保はすでに、連れ込みホテル街として有名になっていた。

「『戦後』とは、平和と民主主義と繁栄を獲得した時代ではない。九十九人が『戦後』を謳歌するにしても、一人の批評家の『私情』は、『深い癒しがたい悲しみ』によって満たされ、『戦後』を喪失の時代とすることを躊躇わない。『自分にとってもっとも大切なもののイメイジが砕け散ったと思われる以上』は。
『戦後』日本に対する最強の批判者が誕生した瞬間が、この『故郷』再訪であった。」
 
ばっかばかしい。江藤が「故郷」を懐かしみ、今は亡き母親との、ありし昔を思い出して、涙する。それはいい。しかしそれをもって、戦後日本に対する、「最強の批判者が誕生した瞬間」というのは、まったく笑止千万である。

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