ちゃんと校閲しなさい!――『夏の栞ー中野重治をおくるー』(4)

佐多稲子はまた、小林多喜二の死にも出会っている。
 
小林多喜二は1933年2月20日に、赤坂の路上で逮捕され、築地警察署で拷問死させられたのである。
 
佐多は小林多喜二に、ほんの数日前に会っていた。

「私なども、その三日前に、料亭の並ぶ赤坂の、小林の逮捕された同じ通りで小林に連絡をとっていたようなつながりにいたから、小林のその死は私の主観を一層尖敏にした。」
 
佐多稲子も戦前の、暗い歴史の表舞台の、中心に存在していたのだ。
 
しかしそれにしても、この引用で、「私の主観を一層尖敏にした」という、「私の主観」は、やはりおかしい。

「牛込柳町のひっそりした片側通りの一軒の二階で、非合法化の活動家たちと落ち合って、小林多喜二の死に黙禱をしたとき、私の胸には、二十一日の夜、阿佐ヶ谷の自宅に戻された小林多喜二の遺体をあらためたときの私自身の感覚と、小林の母、せきさんの痛恨の姿があった。……遺体の両股は紫色に腫れ上っていた。小林の母が多喜二の喉の傷を撫でて『どこ、息詰まった。殺さねえでもいいこと……』と云うとき、母のその息も喘いだ。この黙禱の席にいた六人のうちで、小林の遺体に接したのは勿論私一人であった。」
 
歴史の教科書で、一行ですまされる、小林多喜二の拷問による死が、突然生々しく迫ってくる。
 
それにしても佐多稲子という人は、人の五生分くらい有為転変を経ながら、なおそういう舞台に、召喚されなければならないのだ。
 
しかしそうであればあるほど、佐多の文章には、注意が払われてしかるべきだろう。もはや、いちいち例を挙げるのはやめるが、『夏の栞』は、後半に行けば行くほど、文章が危うい。
 
おそらく中野重治が死んで、佐多稲子の胸中に甦ったとき、そのとき歴史の中で、二人の関係は、深いところで、ますます微妙なものになったのであろう。
 
校正者はしかし、それを、意味あるものとして、忖度して読んではいけないのではないか。
 
まあ難しいやねえ。表面の、上っ面の意味を、すんなりと通るようにしなければ、当然疑問を出すだろうが、しかし佐多稲子の文章である。
 
しかし私は、ここでもう一段階、多く疑問が出ていたならば、『夏の栞』は、比類ない傑作になったと思うのだ。

(『夏の栞ー中野重治をおくるー』佐多稲子
 新潮社、1983年3月5日初刷、1986年3月15日第16刷)

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