ぱらぱらと捲っていけば――『古本市場が私の大学だったー古本屋控え帳自選集ー』(4)

「佐多稲子覚え書」は、強く印象に残る章だ。
 
佐多稲子は、はじめ窪川いね子。家庭が貧しくて、小学校のときから工場勤めをはじめ、キャラメルの包装作業に従事する。
 
このときのことは「キャラメル工場から」に詳しいが、僕は読んでいない。というより佐多稲子は、読んだことがない。
 
むかし新宿の番衆町に、Hという飲み屋があり、そこの女将があるとき、佐多稲子の『夏の栞ー中野重治をおくるー』をやたらに誉めるので、絶対に読むものかと思ったが、そのタイトルだけは強く印象に残った。
 
そこの女将とは、喧嘩をするわけではないが、なんとなく張り合う感じがあった。それなら飲まなければいい、というのは、酒飲みの心を知らない人の言い草であり、そういうものではない。
 
佐多稲子はその後、上野の青凌亭に座敷女中として入り、18歳で日本橋丸善の洋品部店員となる。
 
その間、何度も自殺を考えるが、大正12年の関東大震災に逢って、そういう考えは吹き飛んだ。
 
翌年、資産家の息子と結婚し、長女を生むが離婚する。
 
もうここまでで波乱万丈の人生だが、ここまでは言ってみれば前座である。
 
大正15(昭元)年、23歳のとき、本郷動坂のカフェー、紅緑に勤める。
 
紅緑は、「驢馬」創刊の打ち合わせで、中野重治、堀辰雄、窪川鶴次郎らが出入りしたことから、佐多はこの人たちと知り合う。

まもなく佐多は、浅草のカフェー、聚楽に移り、窪川鶴次郎と同棲、結婚する。

佐多はそこで、中野や窪川の影響でエンゲルス、レーニンの著作を読み、昭和3年、処女作「キャラメル工場から」を書く。
 
ここまでで佐多稲子は、小学校5年生の途中までしか行っていない。これは、のちの仕事を考えてみれば、なかなかすごいことだ。
 
佐多はそのことを、「学歴なしの履歴書」に書いている。

「出生地などの次に必ず学歴の欄があって、最終出身校を書き入れるようになっている。私の場合その出身校というものがない。出身校というからには、少なくともその学校を卒業していなくてはならないだろうが、私はついに一度も卒業ということをしたことがない。蛍の光、窓の雪というあの歌をうたったことがないのである。」
 
なかなかすさまじいことではある。

はじめ佐多は、「驢馬」の仲間から、女優になることを勧められ、その稽古に通い始めたが、その途中で中野重治に、小説を書くことを勧められ、そこで書いたのが、「キャラメル工場から」だった。

なお佐多は、昭和20年に窪川と離婚している。

ちなみに青木正美の最後の文章は、こうなっている。

「たった一つ年上だった窪川の死は昭和四十九年。その悲惨とも言えなくはない窪川の晩年は、佐多の川端康成文学賞を受賞した短篇連作の『その十一』に詳しく哀惜をこめて書かれている。」
 
川端賞を受賞したのは『時に佇つ』、これを読まずにはおられようか。
 
青木正美のこの本には、そういう話が詰まりきっている。

(『古本市場が私の大学だったー古本屋控え帳自選集ー』
 青木正美、日本古書通信社、2019年6月20日初刷)

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