生き物、すべて友達――『昆虫学者はやめられないー裏山の奇人、徘徊の記ー』(3)

「ダマしたい虫、ダマされたい人 Ⅰ」の章では、「私の行きつけの裏山」で、擬態して越冬中の、ホソミオツネントンボを観察する。これは、広大な枯れ野で見つけることは、困難を極める。枯れ枝に擬態して、まったく動かないからだ。
 
もちろん小松先生は、それを見破る。

「私はトンボをじっくり観察してみた。奴は枝をしっかりと脚で摑んだまま、その場から一歩も動かなかった。一見、生命の覇気が全く感じられず、死んでいるようにも見えた。しかし、こちらが顔を近づけると、トンボはその場から逃げない代わりに体を僅かに斜めに傾けて見せた。敵が寄ってきた時、彼らはこのように相手側から見た時に少しでも自分がトンボの姿に見えないような角度に体を倒すのだ。」
 
実に微細な擬態だが、しかし著者は、そのわずかな間合いを感知する。

「こうして越冬昆虫達を相手に鍛錬し、向上させた『隠蔽解除能力』は、フィールドから『左右対称のもの』『明らかにその場の景色になじまないもの』を見抜くのに抜群の威力を発揮する。それゆえ、私は擬態昆虫の総本山たる熱帯のジャングルなどへ行っても、枝そっくりなナナフシや樹皮そっくりなウンカなど並み居る刺客どもの擬態技を、次々に見破ることが出来るのだ。」
 
こういうことをやるのは、ほかの昆虫学者にはいるのかね。

もし何人か、こういうことに長けた人がいるのであれば、ぜひテレビチャンピオンとして出てほしいものだ、というのは半分は冗談だが、最後に著者はこういうふうに言うのだった。

「私に見破れぬ擬態はない。」
 
とはいうものの、擬態する虫は多くの場合、自分が何に擬態しているか、よくわかってはいないという。

「ダマしたい虫、ダマされたい人 Ⅱ」では、その問題を扱う。
 
擬態は、僕のような素人にはたまらなく面白い。でも、ちょっと待ってよ。

「ここまで私は文章中において、軽々しく擬態擬態と連呼してきた。しかし実のところ、人間の目から見てある生物が何かに似せているように思えても、それが本当に擬態している(つまり自然下でそれを捕食している立場の天敵をちゃんと騙せている)ことを実験的に証明するのはとても難しいのである。」
 
なるほど、言われてみれば、これはコロンブスの卵だ。

素人は、というのは僕のようなのは、擬態と言われれば、なるほど自然は精妙なものだと、簡単にコロリと感動してしまう。
 
しかし、理屈を立てて考えていけば、一筋縄ではいかなくなる。

「巨大ガとして有名なヨナグニサンの前翅の縁には、黄色い部分があり、これがヘビの横顔そっくりだとも言われる。このヘビを見せ付けて、天敵の鳥を追い払うのだという俗説が、しばしば蘊蓄本の類にも書かれている。しかし、この話に関しても誰かが実際に本物の鳥を使い、統計にかけられる程の例数を観察の上検証したことではない。個人的には、これも人間が単に擬態していると思い込みたい故の『作られた擬態』に過ぎないと思う。そうであった方が、物語として面白いからだ。」
 
こうなると素人には、わからないというほかはない。
 
しかしこの擬態については、人間の自然観を変えるほど、面白い問題だと思う。

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