労作をジャンピングボードにできるか――『日蓮主義とはなんだったのかー近代日本の思想水脈ー』

これは大変な労作である。本文600ページ、註160ページ。読み始めは、少し硬くてちょっと苦労するが、すぐに夢中になる。
 
実はこの著者、大谷栄一さんは、およそ20年前に、処女作を法蔵館の、東京事務所で出している。
 
題名は『近代日本の日蓮主義運動』(2001年)、直接の担当者は林美江さん、私は所長として最初の原稿と、最後の責了紙を読んだ。
 
今度の本のあとがきにも、林美江さんと私に、最初の本のことで礼が述べてある。これはあまり例がない。
 
最初の本では、明治中期の1880年代から、昭和初期の1920年代までを扱い、田中智学と本多日生を中心として、その思想と運動の全体を描いたものだった。
 
処女作は端的に言って、面白かった。日蓮主義というのが、中世の日蓮の主張を巡るものではなく、近代に成立したものであり、これは田中智学が、大きく関わっていることを解き明かしていた。
 
そもそも日蓮主義が、なぜ近代に、まるで噴火のごとく、いろいろな人を巻き込み、新たな運動を起こしていったのかが、初めて分かったような気がした。
 
そして19年経って、今度の本である。
 
今度は敗戦後まで、扱う範囲が広がっている。田中智学、本多日生に加えて、石原莞爾や妹尾義郎、宮沢賢治を中心に、多数の人物が入り混じって、日本近代史の一側面が、骨太に描き出されている。
 
それはそうなのだが、しかし戦後まで来ると、「日蓮主義」というものに、ある決着をつけなくてはいけない。私はそう思う。
 
著者の大谷栄一さんの、最後の一段はこういうものだ。

「田中智学の国立戒壇論は、現代にも伏流水のように存在しているのである。日蓮主義が戦前のような幅広い影響力をもつ日はふたたびくるのだろうか。」
 
これでは、きつい言い方をすれば、著者は距離をおいたところから、ただ見ているだけだ。
 
私は、妹尾義郎が戦後、近代的な日蓮主義の政党を作ろうとして、夢破れたところで、日蓮主義のある終焉が来ていたと思う。
 
もう一度、日蓮主義が、突然噴火のようなことを起こしても、たぶんそれはそれで、消し止めねばならないと思うのだ。
 
それよりも大谷栄一さんには、とりあえず終わった日蓮主義をスプリングボードに、新しい日本近代史を構想してもらいたいのだ。

(『日蓮主義とはなんだったのかー近代日本の思想水脈ー』
 大谷栄一、講談社、2019年8月20日初刷)

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