まるで下北沢・小劇場だな――『スタッキング可能』(1)

松田青子は、『スタッキング可能』で教祖のように登場した、と斎藤美奈子の『日本の同時代小説』に書かれていた。

いや、教祖ではなかったかもしれないが、そういうインパクトのある言葉だった。

これは発売当初、書店で見ている。ぱらぱらとめくったが、いかにも著者が独りよがりで、とんがり過ぎていて、これはちょっとという感じだった。

しかし、斎藤美奈子の言葉には、考え直させる力がある。

まず最初に、スタッキングとは、揃いの食器や椅子などを積み重ねること。それが可能であるとは、オフィスの中では、どんな人間も、取り換え可能だということ。

そのために登場人物たちは、D田、A田、B田……と呼ばれ、固有名詞は剥奪されている。これが『スタッキング可能』の意味である。
 
そこではたとえば、こういう独白が生まれる。

「『わたし』は絶望した。終わってる、この世界、終わってる、と思った。
 笑顔がかわいい。えくぼがかわいい。天然でかわいい。家庭的でいい。やさしい。
 男たちが好きな女のナイスポイントをあげつらうたびに、『わたし』はそんな女になりたくないと思った。死んでもなりたくない。」
 
女も男も、「スタッキング可能」という意味では、同じことだ。しかし女は、男との関係で、固有の存在を、二重に剝奪されている。

「『わたし』は笑うのをやめた。無理して合わせようとするのをやめた。何があっても目の前に出てきたシーザーサラダを取り分けないと決めた。そうすると男たちにこわいと言われた。陰口を叩かれた。でもその方がずっとマシだった。……これは戦いだと『わたし』は思った。」
 
もちろん会社には、いろんな人がいる。たとえば、仕事さえやっていれば、基本的には放っておいてくれるのがいい、D山みたいな。

「……D山は自信を持って言えた。彼らより、誰より、私が一番ここにいないと。
 どうも自分はうまくやれない。この世界は居具合が悪い。理由なんて別にない。もう幼稚園からわかっていた。友達の、同級生の、周りにいる人たちの、話している内容が理解できない、意味がわからない、面白いと思えない。なぜどうでもいいことをいちいちずっとしゃべっているのか。それに合わせるとすごく疲れる。……
 D山を救ってくれたのは、噓みたいだけど、会社だった。」
 
とにかく、いろんな人がいる。
 
しかし、それを全部含めて、「スタッキング可能」であるのだ。

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