詩人にして哲学者、そして大阪漫才師――『夏物語』(6)

夏の長い日も、さすがに暮れかけてくる。Nやんは、ちょっと黙った後、言葉を継いだ。

「もう一人、善百合子という女が、登場してくる。この女は逢沢潤と同じで、AID(第三者の精子を利用した人工授精)で生まれてくるんやけど、社会的に父親の役割をしてる男に、散々レイプされるんよ。」

「うん、この善百合子が、もっとも強硬な妊娠否定論者やね。そこを読むと、
『「……どうしてみんな、子どもを生むことができるんだろうって考えているだけなの。どうしてこんな暴力的なことを、みんな笑顔でつづけることができるんだろうって。生まれてきたいなんて一度も思ったこともない存在を、こんな途方もないことに、自分の思いだけで引きずりこむことができるのか、わたしはそれがわからないだけなんだよ」』
この女の考えは、仙川涼子の、小説を取るか、子どもをとるか、よりももっと深い」

「もうちょっと後で、善百合子は、より根源的なことを言うんや。ここはちょっと長いけど、未映ちゃんの、もっとも未映ちゃんらしいとこや。ここがほんまのキモや。
『「生まれてきてよかったと言わせたい、自分たちが信じているものをおなじように信じられる人生にとどまらせたいがために――つまり自分たちの身勝手な賭けに負けないために、親や医者たちは、頼まれもしないのに命をつくる。ときには小さな体を切って、縫って、管を通して機械につないで、たくさんの血を流させる。そしてたくさんの子どもたちが、痛みそのものとして死んでいく。するとみんな、親に同情するわね。かわいそうに、これ以上の悲しみはないってね。そして親たちも涙を流して、その悲しみを乗り越えようとして、それでも生まれてきてくれてうれしかった、ありがとうって言うんだよ。彼らは本心からそれを言うんだよ。でも、ねえ、そのありがとうっていうのは何? それは誰に言っているの? いったい誰のために、いったい何のために、その痛みでしかなかった存在は生まれてきたの?」』
その後も、より踏み込んだところに、入っていくことになる」

「哲学者・川上未映子の面目躍如やね。最後に善百合子は、こういうことを言うんや。
『「……生まれた瞬間から死ぬまで苦しみを生きる子どもは、誰であったとしても、でも、あなたではないのだもの。生まれてきたことを後悔する子どもは、あなたではないもの」』
これは究極、我が子であっても、人間は他者を理解できない、徹底的に理解できない。人間の個我、人は徹底的に孤独や、という問題や。たとえ親子であっても、ちっちゃい子やってもな」

「ここから、大きな大団円に向かうところは、ちょっと種明かしという趣もあるから、小説の具体的な話はここまでにしようや」

「うん。しかし交響曲で言えば、最後のクライマックスに至る前に、ガタンとオチがくる、そこがほんまに秀逸や。やっぱり川上未映子は、天才的というか、天才的いちびりというか」

「ここが二度目の、笑い死にしそうなとこや。例のいたちが出る話、いやもうほんまに、未映ちゃん、荘厳なクライマックスの前に、こんなオチ作るんやもん、ほんまにどもならんで」

この記事へのコメント