斎藤美奈子の孤独な闘い――『日本の同時代小説』(4)

その前に、第3章「八〇年代」の話を、もう少し続ける。
 
斎藤美奈子が言うように、「八〇年代の文学界は小説の実験場のような趣」があった、ということだ。
 
以下に挙げる作家たちも、さまざまではあるが、どれも現実からは、高低の差はあれ、飛翔している。
 
核戦争後を見据えた、安部公房『方舟さくら丸』(1984)、どこまでも小説が脱線する、後藤明生『吉野大夫』(1981)、『首塚の上のアドバルーン』(1989)、正常と病んだ精神の境目も、生死の境もはっきりしない、古井由吉『槿』(あさがお、1983、これは全然わからなかった)など、どのくらい分かったか怪しいものだが、しかし読んでいるときは、『槿』以外は、面白かった。
 
80年代はまた、「笑い」が復権した時代だった。
 
小林信彦がW・C・フラナガン名義で出した『ちはやふる奥の細道』(1983)、パスティーシュ(文体模写)を駆使して、ホントに面白かった清水義範『蕎麦ときしめん』(1986)、『国語入試問題必勝法』(1987)、「春って曙よ!/だんだん白くなってく山の上の空が……」の橋本治『桃尻語訳枕草子』(1987)、そしてトリは、酒見賢一のデビュー作、偽史『後宮小説』(1989)である。
 
斎藤美奈子は、次の文章で、この章を締め括っている。

「八〇年代は、出版文化が戦後もっとも輝いていた時代でした。八〇年代の後半にワープロは普及しましたが、携帯電話もパソコンもまだ希少。紙メディアが文化の最先端を走っていた。文学の『お遊び』が歓迎されたのは、そんなバックグラウンドとも無関係ではありません。意外にも、バブルは文学も後押ししたのです。」
 
問題は最後の一文である。「意外にも、バブルは文学も後押ししたのです」とは、どういう意味か。
 
読者は潤沢に、本を、文学を、購入することができたのだろうか。作家は、収入という後顧の憂いなく、文学上の冒険ができたのだろうか。
 
このころ文学作品は、本当は陰りが見えていたはずだ。80年代までは、まず雑誌に掲載され、その後、単行本になり、そうして文学全集に収録され、または文庫になったのである。
 
一片の作品が、三度または四度、稿料・印税の支払いを受けたのだ。
 
それが80年代には、文学全集の終焉を見る。
 
90年代半ばには、出版は、雑誌の不振による、構造不況に突入するのだから、やはり80年代は、頂点を極めるのと同時に、満月が欠けるのを見るように、そこから衰退していったのである。

出版は不況に強い、という、言われなき「馬鹿の一つ覚え」を、合唱していた時代が懐かしい。

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