「ネット社会と全体主義」は、情報の受け手の有りようが、変わってきたという話。YouTubeやHuluやNetflixを、スマホやタブレットで見る時代が来ている。
「池上 だいいちテレビ受像機をもっていたとしても、かれらは地上波の放送をあまり見ていません。いまどんどんテレビ視聴率が下がっているのは、そもそも地上波のテレビを点けているひとが少ないからなのです。」
つまり、大衆を大衆として把握することが、できなくなっている。
これは、この本を離れて、たとえば文学作品などでもそうだ。共通に話題にすべき作品が、なかなか見つからない。
そもそも、「共通に話題に」というときの、「共通」が何を指しているか、そこからして、だんだん不明になっているのだ。
大衆は砂粒のように、さらさらと溶けて、なくなっているのか?
「半藤 全体主義というのは……社会が混沌としているときに生まれやすい。そんなときに、しばしば英雄視される者があらわれて、カオスか自分かどちらかを選べと人びとに迫る。あるいは人びとのなかに眠っていた怒りを呼び覚まして操作しようとする。」
ばらばらの砂粒が、さーっと1か所、または1人の人物に集まりだすと、危ないのだ。これは経験がないから、よく肝に銘じておかなくては。
といっても歴史の上で、2,3回失敗してみないと、ダメなような気もする。
あるいは、もうその1回目は、来ているのか。
対談は他にも、いろんな話題に及んでいる。アメリカとの関係や、経済の失われた30年など、いずれも大変興味深い。
しかしここでは一点、2人ともが問題にしている、政治における言葉の言いかえ、の問題を論じておく。
「半藤 ……今の安倍内閣批判をひとつだけ言わせてください。
日本の国は戦争中に、いかに国民を騙すために言い替えというのをやったか。『撤退』じゃなくて『転進』。『全滅』を『玉砕』。安倍さん、いま似たようなことを盛んにやっているんです。たとえば『戦闘』じゃなくて『武力衝突』といった。」
そうして半藤は、その言い替えの例を、これでもか、というほど挙げる。
「共謀罪」→「テロ等準備罪」
公文書の情報公開を阻む法律→「特定秘密保護法」
「武器輸出」→「防衛装備移転」
「カジノ法」→「統合型リゾート実施法」(IR法)
「移民」→「外国人材」
「単純労働者」→「特定技能者」
ヘリ搭載の護衛艦の「空母」化→「多用途運用護衛艦」
「安全保障関連法」→「平和安全法」
これは相当危ない。
それで結局、戦争のできる国が、「積極的平和主義」を掲げる国になる。
先の天皇が、平成の間は、少なくとも日本一国は、戦乱に巻き込まれず、平和であった、と言った。
平和に耐えるとは、このことだったのか。これは、心してかからないと、かなり苦しそうだ。
(『令和を生きるー平成の失敗を越えてー』
半藤一利・池上彰、幻冬舎新書、2019年5月30日初刷)
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