どこまでも応援してるぞ――『うつ病九段ープロ棋士が将棋を失くした一年間ー』(2)

「貧困妄想」のところを読むと、僕も脳出血で病院にいるときは、うつ病になりかかっていたな、と思う。なんでも悪いほうへ、悪いほうへと、考えるものらしいが、お金の心配は、ほとんどのうつ病患者に出る症状なのだという。
 
先崎は、休場していた時期も、何がしかの手当てが、将棋連盟から出たという。

「お金が出ると聞いた時は本当に嬉しかった。金額の問題ではない。情感が消えたうつ病患者でも、人情は残るのである。」
 
このあたりの微妙な書き方は、ほんとうに見事。先のエロ動画もそうだが、金銭が及ぼす「人情」とは何なのか。興味は尽きない。
 
うつ病は、誰でもなりそうな気がする。僕なんかも、会社に行っているころ、面白くないことが、いくつも重なると、会社に行く気がなくなり、うつ病になりそうな気がした。
 
しかし、先崎九段の本を読むと、僕なんかが、うつ病になりそうといっていたのとは、まったく次元が違うものだとわかる。

「うつの不眠の辛さは凄まじいものがある。健康な時ならば本を読んだり、うとうとしたりしてやり過ごせるだろう。だがうつの時は、まず軽く眠るということができない。頭の中に靄がかかっているくせに、悪いことだけ考えられるのだ。起きながらずっと悪夢を見るよりないわけである。
 ……
 悪い連想がおさまっても、基本的に頭の中には石が入っていて、胸には板が入っている。容赦なくそれが消えない。」
 
頭の中に石、胸には板とは、なんと凄まじいことだろう。
 
また、こういう一行もある。

「人は希望を感じるのと同じくらい、絶望を感じるのにもエネルギーがいるのだ。」
 
これも、うつ病と闘った人でないと、出てこない表現だ。
 
あるいは、すこうし良くなって、外を歩き、本屋に入ったとき、散々迷ったあげく、何も買わずに店を出たとき。

「ただ単に物を買うということ自体が途方もなく気力を必要とすることなのだった。」
 
そういうことなのである。
 
散歩もある意味、試練だ。

「ただひたすら公園を歩いた。途中何度もベンチで休みをとったが、おそらく四、五時間は歩いたのだろう。往き返りを含めると丸一日の散歩だった。これだけ歩けば大丈夫だろうと、試しにその日は睡眠薬をのまずに寝てみたが、全然だめだった。」
 
そしてあるとき、ふと将棋の場面を見たのだ。

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