貫目が足りない――『あちらにいる鬼』

著者の井上荒野は、井上光晴の娘である。
 
父、井上光晴は、瀬戸内寂聴と不倫の関係にあった。正確には、得度した寂聴ではなく、瀬戸内晴美のときである。
 
井上光晴の妻、つまり著者の母は、すぐにそういう関係に気づく。
 
その三者を描いた小説である。

帯の表には、「小説家の父、美しい母、そして瀬戸内寂聴をモデルに、〈書くこと〉と情愛によって貫かれた三人の〈特別な関係〉を長女である著者が描き切る、正真正銘の問題作」とあるが、それほどのことはない。
 
娘である井上荒野が、父母を含む、三者三様の心理を描いたところは、なかなかすごいものだとは思うが、それにしては、父の井上光晴が、とっかえひっかえ女とやるだけの、昔はよくいたセクハラ親父で、それに耐えている母も、子供がいるからしようがないだけの、つまらない女だ。
 
もちろん、母を近くで見ていた著者にとっては、違うだろうが。実物を見ていない私にとっては、やはり、つまらない女だ。
 
そういう意味では、瀬戸内晴美から、得度して寂聴となった女性だけは、描いていて、描き甲斐があっただろう。
 
しかし著者には悪いが、女と男は相見互い、車谷長吉の言葉を借りれば、男女は貫目が合って、ドラマが起こる。その意味では、どの人物も、はっきり言って、貫目が足りなくて、うんざりだ。あるいは、低いところで、貫目が合っている。
 
著者にとっては、自分の親のことだから、苦しくても、書かずにはいられなかっただろう。
 
そういうものを、ついおもしろそうだと、引っかかる私が悪い。
 
けれども、直木賞をもらった『ホテルローヤル』、「正真正銘の問題作」である『あちらにいる鬼』と続けて読んで、これではもう、どうしようもないと思うのは、やはり小説は、何かが欠けてきていて、終わりつつあるジャンルなんじゃないか。
 
そこは、何とかならんのか。
 
読んでいるうちに、考えてもみなかったところに出たり、あるいは、想像もできないところを、闇に迷って深く深く進む、といったことは、もう小説世界では、経験できないんだろうか。
 
そういうことを、漠然と考えていると、やっぱり村上春樹しかいないんじゃないか、と思えてくる。

(『あちらにいる鬼』井上荒野、
 朝日新聞出版、2019年2月28日初刷、4月30日第4刷)

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