上級編集者論――『伝える人、永六輔ー『大往生』の日々ー』(5)

永六輔・井上一夫のコンビは、『大往生』『二度目の大往生』に続いて、『職人』『芸人』『商(あきんど)人』を出す。「覚書」を送った後は、実に快調である。

「このときわたしのなかには、こんな了解ができていました。永さんの語りは、ときに俗説っぽいことを平気で言ったりするけれど、すべてみずからの身体をくぐった『知恵』に転化している。……つまりは永さんの『生き方講座』であり、期待すべきは永さんのボルテージの高まり。大きなテーマさえ定まれば、あとは彼のセンスが解決する。」
 
こう見てくると、井上さんは、場合によってはお釈迦様であり、永六輔は、その掌の上で踊る孫悟空といった趣である。もちろん、どちらが偉いとか何とかいうことではないので、誤解のないよう。
 
結局、編集の究極の極意とは、編集者が自分をさらけ出す、ということに尽きる。

もちろん、より効果的な見せ方はあるだろう。しかし、小手先のことをどうこうしても、人間が勝負となれば、すべてをかなぐり捨てて、著者にぶつかっていくしかない。

それにしても、そういうことを、最初から教えていてくれればなあ、と思わずにはいられない。

とくに、そこそこの学歴を持った人間は、とかく格好をつけたがる。僕もそうだった。

トランスビューという、まったく新しい出版社を作って初めて、何もかもかなぐり捨てて、前に進めたのだ。

そのときはもう、四十歳代の後半だった。まったく、回り道をしたものだ。

この本には他に、例えば手紙のコビーを取る、ということが出てくる。

「編集者たる者、大事な手紙はコピーをとっておくというのは、わたしならずとも心がけておくことです。」
 
これは、著者の手紙のコピーではない。編集者が、自分の方から出す手紙である。これは本当に難しい。
 
僕は、五十歳を過ぎたあたりから、やむを得ずコピーを取り始めたが、そしてそれは役に立ったが、それでも最初は、コピーを取るのは嫌だった。

自分の手紙は、時間がたってみると、へたくそな点ばかりが目立つのだ。もちろん、コピーを取っているうちに、それはたいして気にならなくなるのだが。
 
さらに井上さんが、ひそかにこの本で、計画していることがある。それは、表立ってはっきりとは書かれていないが、彼が試みる「文体」のことである。
 
井上さんは、永さんの本、永さんの文体を、横目で見ながら、この本を書いている。永さんの岩波新書は、独特の文体で書かれているのだ。

「ここで編み出された疑似講演録という手法は、……永さん本の大きな特徴のひとつとなります。これはじつは、新たな文体を生み出す作業でもありました。
 ………
 あたかもしゃべったような文体、それこそが課題だったのです。」
 
井上さんは、これを換骨奪胎、自分でもやってみるのである。

その出来栄えは、どうぞ読者が確認してください。

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