日本語見本帳――『切腹考』(2)

このО氏の、表情の変化が面白い。もちろん、伊藤比呂美の目に映った限りでは、ということだ。
 
この辺も日本語の見本帳になる。

「玄関で出迎えられたとき、О氏はわたしを見て落胆した。切腹が好きなばかりか、セックスのことをあけすけに書いている若い女の詩人が来るから、どんな女か、誘えば一しょに腹が切れるか、そのあと血まみれになりながら我がペニスを挿入できるか、その挿入はこれまでのどんな挿入よりもすばらしく、つづく射精はどんな爆発かと浮き浮きして出てみたら、こんなに泥臭い、化粧っ気もない、若いだけでたいしたことのない女だったと、落胆したのが見てとれた。」
 
これは、どの部分がすごいかといえば、「そのあと血まみれになりながら我がペニスを挿入できるか、その挿入はこれまでのどんな挿入よりもすばらしく、つづく射精はどんな爆発か」というところ。
 
ペニスのない伊藤比呂美が、まるでペニスがあるかの如く、じつにリアルに、神経の襞をなぞっている。

切腹といえば、近松門左衛門や滝沢馬琴や鶴屋南北の、血まみれの死は、「とてもエロい」。その血まみれの切腹に、いちばん近いのはお産だ、と著者は見当をつける。
 
はっはっと息が荒くなって、「がっくり落ち入る」というラマーズ法は、どれほど快感が大きかろうと、期待していたのだか、痛いだけであった。
 
で、その次が面白い。

「そう言えば台所でしょっちゅう包丁で我が指を切り刻み、家人に血まみれのキャベツの千切りなどを食べさせていたが、あれも不快なだけだった。」
 
まざまざと浮かんでくるなあ、「血まみれのキャベツの千切り」。
 
切腹小説は、著者の見るところ、オノマトペに見るところがある。そうしてそれは、古いものほど見るべきところがある。

「昔に書かれたものほど、オノマトペが少なく、あえて使うときにも、生活の他の場面にも使えるような一般的なオノマトペをひっそりと使う傾向がある。ぞりぞり、ぐぐっ、ふーむ、(これはオノマトペではないが)笑み割れた臍(へそ)の上になどというのが、私の好きな表現だ。」

「笑み割れた臍の上に」のどこが気に入ったのか、皆目見当がつかない。
 
そういえば、この本の柱の一つである、森鷗外の「阿部一族」や「興津弥五右衛門の遺書」の読ませどころも、僕にはわからない。

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