「投資家」はどこにいる?――『中央銀行は持ちこたえられるか―忍び寄る「経済敗戦」の足音―』(2)

たとえば次の文章。

「国内外の投資家は常に各国の国債金利をにらみながら内外債券の保有ポジションを決めています。」
 
一国の、あるいは地球規模の経済活動を見すえて、「投資家」はいつも、虎視眈々と利益を上げようとしている(らしい)。
 
しかし、その「投資家」はいったいどこにいるのだ。
 
もちろん有名な「投資家」は、何人かはいる。けれどもみんな、こういう言い方はどうかと思うが、人間としては、およそ魅力のなさそうな人ばかりだ。
 
そういう有名な人ばかりでなく、大勢いるに違いない、無名の「投資家」たちは、普段はどこで、何をしているのだろう。
 
機関投資家と呼ばれる人たちは、普段は会社にいる。だからこれは、会社の人以外には、会うことはなかろう。
 
そうではない、街の個人投資家は、二十四時間、インターネットを見ながら、株の売買をやっているのかね。
 
だとすると、実につまらない人生を送っていることになろう。少なくとも、そんな人生を送ることは、私はまっぴら御免だ。
 
だいたい「投資家」とは、日本の場合でいえば、何人ぐらいいて、男女の比率はどのくらいで、どんな暮らしをしているのだろう。
 
資本主義の中心には、「投資家」がいるはずなのだから、もっとはっきり声を出してもいいはずだ。それとも、株の売買以外に、とくに言うことはないのかね。
 
はっきり「投資家」とは分けられない「投資家」が、大半なのだろうか。
 
中学や高校で、「投資家」になるには、という授業があってもいいはずだと思うが、そういう話はとんと聞かない。
 
だいたい私の周りには、「投資家」なるものが、一人もいない。ここまで生きてきて、まったく一人の「投資家」にも出会わない。これはつまり、どういうことなのだろう。

「国債金利をにらみながら内外債券の保有ポジションを決め」ている「投資家」は、一国のうち何パーセントが、それに当たっているんだろうか。
 
そういうものを、最も重視しなければいけない経営者や政治家というのも、むなしい商売だなあ。

「投資家」は、こういう良識を持ち、こういう勉強をし、こういう努力を行ない、世間に対してはこういうふうに振る舞ってほしい、というガイドラインを、大枠だけでも決められないものか。
 
あるいは多くの「投資家」を見れば、自ずからそこには、一つの典型が見えてくる、というふうには、ならないのだろうか。
 
株の売り買い以外は、まったく正体不明の「投資家」というのは、ただただ不気味という以外にない。

(『中央銀行は持ちこたえられるか―忍び寄る「経済敗戦」の足音―』
 河村小百合、集英社新書、2016年11月22日初刷)

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