およそ30年ぶりの伊藤比呂美――『たそがれてゆく子さん』(4)

伊藤比呂美のエッセイで、かぎりなく共感するのは、たとえば以下の場面だ。

「父が死に、夫が死んで、もうだれもあたしを怒鳴らない。
 平穏である。
 もう二度といやだ。怒鳴られるのは。」
 
私の父を含む、ある年代の男たちは突然、怒鳴り声をあげた。あれは絶対、PTSD(心的外傷後ストレス障害)だよなあ。

立場上、家長がこういうふうになると、ほかの家族はどうしようもない。ただ黙って、嵐の通りすぎるのを待つより、方法がない。
 
その間、心がどれほど壊れていくか。子どもは、長じて距離を置いたり、または絶縁できるが、妻は耐えるしかない。それは本当に、どちらかが死ぬしか、解決の道がない。
 
でもまあ、父の話はもういい。それよりも、やっぱ伊藤比呂美だ。

「あたしは社会的な発言が苦手である。苦手というより嫌い。人と対立するのがいやでいやで堪らない。三無主義だからだ。三無って何だったか、無気力、無関心、無農薬?」
 
あははは、無農薬? ところで三無主義ってなんだっけ。私は高次脳機能障害により、前世のことは、もうひとつよく分からない。
 
伊藤比呂美は介護について、特に男の介護については、こんなことを述べている。

「もう一度、介護したい。
 ……
 男が一人、老いて死んでいくのを看取るのは、ほんとうによかった。
 母の死は、同じ女として見届けた。悲しみなんかなかった。ただ、よく生きた、よく死んだと納得した。でも男たちの死に対しては、それ以上の何かを感じている。達成感というか、終了感というか、完成感というか。
 ……
 いねぇがっ、どごかに、介護できる年寄りいねぇがっ、と心の中で叫んでいる。」
 
こういうのは、ほんとうに感動する。女がみんなこうとは、もちろん限らないが。というか、ひょっとすると、女でも少数かもしれないが。

「一日生きてるといろんなことを考える。昔はそれをだらだらと夫に話した。話してるうちに夫の話しぶりにむかついてケンカになった。いやな気分だった。でも夫がいなくなったら、ネットのニュースで読んだことや散歩しながら考えたことがリアルなのかどうか、だれもあたしに証明してくれないのだ。」
 
仕事をしていても、くつろいでいても、どこにもリアルがない。願わくば、私が死んだ後も、妻にこういうふうになってほしい。

(『たそがれてゆく子さん』伊藤比呂美、中央公論新社、2018年8月25日初刷)

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