漱石の全体像とは――『編集者 漱石』(3)

正岡子規は「回覧雑誌の制作に熱中する、早熟な〝編集少年〟だった。/最初の制作は『櫻亭雑誌』。明治十二年の四月二十四日(推定)に第一号が、以後毎週木曜日に発行された。」
 
子規はこのとき勝山学校の最終学年、十二歳ころであった。この歳で、毎週木曜日に雑誌を発行する――確かに早熟の天才とは、いるものなのだ。

「編集とは、一つには見せる技術である。子規は少年時から見せる技術を体得し、習熟していたのだった。」
 
子規について書かれた編集者としてのプロフィールは、そのまま長谷川さんの編集者論にもなっている。
 
長谷川さんによれば、そこにはもう一つ、優れた編集者として絶対に欠くべからざる資質がある。

「すぐれた編集者には、組織者としての能力がもとめられる。人と人、事物と事物との間に、目に見えない有機的なつながりを発見して、集約する。新しい結合体を想像するのである。人であれば、資質を見出して、かつ育てる。」

編集者とはどんなものか、それを外側から見れば、ほとんどこの数行に尽きている。

けれども子規は、志なかばで結核に倒れてしまう。このとき、長谷川さんの言う「無意識の触手の結合」が、子規と漱石の間に起こった。

先を急ぎ過ぎた。「無意識の触手の結合」なのだから、漱石にもまだ、何も分かっていなかったのだ。
 
漱石が、都落ちして松山に行く前――。
「かれの理想の梯子は、自身の目にも見えないほどの茫漠たる高所を目指して懸けられている。いまはアイデンティティ―の影すら摑めない。」
 
それが子規との交わりによって、徐々に才能が開花していくのだ。漱石は子規に、実にたびたび俳句の添削を依頼している。そこに、こんな手紙をめぐる一節がある。

「追伸に、『善悪を問はず出来た丈け送るなり左様心得給へわるいのは遠慮なく評し給へ其代りいゝのは少しほめた給へ』とあるのは、制作者の心理を率直に表明する言葉として印象的である。同時に、編集者への教訓となるものといえるだろう。」
 
この辺り、編集者の要諦を絶対に逃がさないところが、長谷川さんの名手たる所以だ。

それにしても、「いゝのは少しほめた給へ」とはにくいことを言う。編集者は何をおいても、ほめ上手であることをもって、必要の第一条件とする。
 
そしてもう一つ。漱石の並外れた世話好きは、どこから来るのか。長谷川さんは次のように記す。

「孤独という空白が米山保三郎や菅虎雄から敏感に学んだ友情の一表現、それとも運座という一種のコミュニケーションの場によって育まれた生きる技術なのだろうか、……」。
 
これはしかし、もって生まれた性質という以外に言いようがない、と僕は思う。

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