都内で初めて四十度を超えた日、Nやんが久しぶりに、ぶらりと立ち寄った。最後に会ってから、一年半ほど経っている。
「『泥濘(ぬかるみ)』、読んだか。黒川博行の、極道桑原と建設コンサルタントの二宮の話や。」
「『週刊文春』で立ち読みはしたけど。」
「お前、半身不随やと、立ち読みなんか、でけへんやん。」
「それはものの喩えや。デイサービス太陽いうところで、風呂の介助をしてくれて、時間待ちしてるとき、読んだんや。」
「で、どうや。」
「うーん、読むには読んだけどな。……よう分からんかった。高次脳機能障害が治っとらんから、週刊誌で続きものを読むのは無理やな。」
「そうか。でも週刊誌やと、こんどの『泥濘(ぬかるみ)』は、たぶん筋を理解するのは、無理とちゃうか。」
「そうなんや。」
「なにしろこんどのは、シノギのタネを見つけるところから、始まるさかいな。」
「ほうか、それはちょっと斬新やな。俺がさっと読んでも、分からんかったわけや。」
「しかし、とはいうものの、お前の頭の方は、どの程度治ったんや?」
「最低限、日常会話はできる。しかし、ちょっともつれた話をするのは無理や。」
「本はどうや。」
「読めることは読める。けど、むちゃくちゃ遅うなってる。病気の前は、一時間に百ページが標準やったけど、今は三十ページいうところや。」
「それでも、読めることは読めるんやな。」
「うん。それと読み方が、ちょっと変わってきた。うまいこと言えんけど、文章の一つ一つが、いちいち腑に落ちるようになって、なんというか、病気した後の方が、染みわたってくるんよ、胸に。」
「ふーん。そうすると『泥濘(ぬかるみ)』なんか、ピッタリやな。」
「そうなんや。」
「とにかく、シノギのタネを見つけないかん、ということは、話の筋を見つけないかんちゅうことやからな。」
「えーっ、筋を見つけるのが、本筋の芯の話とは……。それ、ハードボイルドと違うやん。」
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