これは、いったい何の本か――『知性は死なない―平成の鬱をこえて―』(3)

著者は、精神的危機は脱出したらしいが、行く手を考えると、前途多難という気がする。やっぱり最終的に、著者は、大学における知性というものを信じている。

「いまもなお吹き荒れているだろう各種の大学改革が、見るべき成果を挙げていないのは、『大学教員はバカ』・『文系なんてカネにならない』・『税金を使ってるんだから政治家にしたがえ』といった、およそ知性を感じさせないポピュリストに主導されたことで」、みんな全くやる気がなくなったように見える。
 
でも、必ずしもそうではない。

「知性のある改革者によって、『知性主義』を脱したより広い知性のために変わるのであれば、積極的に協力を申し出る大学関係者は多いはずだ。
 そう考えるくらいには、私はいまも『知性の砦』としての、大学を信じています。」
 
残念ながら、そうは行かないんじゃないか。政治というのは年々、巧妙になっていくから、むしろ大学の荒廃は、ますます進んでいくんじゃないか。それを食い止めるためには、おおもとの政治を転換させる以外に、方法はないんじゃないかと思う。
 
この本には、さまざまな考えるべきヒントが、詰め込まれている。ただ残念なことに、どの考え方をとっても、生煮え、あるいは独りよがりであると、私には思われる。

独創的な考え方は、とくに頭のいい人の場合は、先走ってしまうものだ。

しかし、私はこの人の本を、読み続けることにする。それは最終的に、こういうことを信じているからだ。

「既存の社会に『いかに適応するか』ではなく、『いかに疑うか・変えていくか』という、知性がほんらい持っていたはずの輝きを、とりもどそうではないか。
 けっきょくはそれが、いまいちばん伝えたいことなのだと再確認させられたのが、私にとっての療養生活だったのだと思います。」

「いかに適応するか」ではなく、「いかに疑うか・変えていくか」ということ、これは本の企画を作る場合と、まったく同じことなのだ。

「いかに適応するか」を謳っているものは、もうそれだけで、揉み手をした、いやしく、小汚い、本に似ているけれども違う、「本もどき」なのだ。
 
そういう思いで、書籍広告を見れば、企画として取り上げるべきものと、取り下げるべきもの、ペッと唾を吐き、近寄ってはいけないものは、一目瞭然である。

(『知性は死なない―平成の鬱をこえて―』與那覇潤、文藝春秋、2018年4月5日初刷)

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