脳卒中仲間は興味津々――『脳が壊れた』(4)

鈴木大介がもっとも苦しんだのは、自分の中の感情が、溢れんばかりに一杯になり、自分でコントロールできなくなったことだという。これは、僕にはわからないことだ。

「……最も僕を苛んだのは、心の中が常に表現の出来ない感情で一杯一杯になって、はち切れそうになってしまうという、これまた他者にむけて表現のしようがない苦しみだった。」
 
これは本当に、よく分からない。僕の感情失禁は、突然、どんなところでも出るので、困ったことは困ったが、でも、鈴木大介の大変さとは違う。

「妻の運転する車の助手席に乗っていても、喉元まで何かの気持ちがこみ上げてきて、叫びたいような、暴れ出したいような、猛烈な焦燥や不安が襲ってくる。」
 
これは、彼が活字で訴えたくとも、なかなかうまく訴えられないことだ。現に脳出血を患った僕が、どういうことなのか、よく分らない。

「僕は、肉体的な苦痛以外に、死んでこの苦しみから逃れられるのならいっそ死んでしまいたいというほどの苦しみがあることを、知らなかったのだ。心がバランスを崩すというのがこんなにも辛いことだなんて、僕は本当に解ったフリをしていただけだったのだ。」
 
このあたりは、続編の『脳は回復する』に、より詳しい記述がある。
 
この本には付録として、「鈴木妻から読者のみなさんへ」という、妻から見た鈴木大介が描かれている。これがなかなか面白い。
 
妻は発達障害で、長年苦しんできた。

「……子どものころから母だけではなくいろいろな人に、夫にも、何かをやる前に先にやられてしまう。うまくやれないという理由で自分でやろうとしていることを奪われてしまうということを繰り返してきているから、結局本当にやれることが少ない。」
 
けれども、妻がメンタルを病んでいたために、鈴木大介は、かろうじて助けられる部分もあった。

「心の痛みというものは、今日は本当につらくて死にたくて、明日もつらいかもしれない。でも明後日になったら一気に楽になっているかもしれないという部分があって、それの繰り返しです。なので、必要なのはただそばにいて、大丈夫だからと言い続けてあげることしかないように感じています。」
 
ほとんど妻の鏡だ。それにメンタルを病んでいるとはいえ、文章も立派なものだ。その妻の、鈴木大介評はこうだ。

「……確かに夫は融通が利かなくなりわがままで意固地になったし、言動や行動からみえる性格は変わってしまったけど、しばらくするうちに、根本の中身の人格そのものが変わったわけではないのだと気付きました。」
 
鈴木大介の、病気の後の自己反省には、「融通が利かなくなりわがままで意固地」、とは書いてなかった。月並みな話だが、これほどの苦難を一緒に経ても、夫婦というのは、なかなか解りあえない。難しいものだ。

(『脳が壊れた』鈴木大介、新潮新書、2016年6月20日初刷、8月6日第2刷)

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