脳出血の後の山田太一――『夕暮れの時間に』(1)

山田太一の身辺雑記。元の単行本は2015年に出た。
 
今回、文庫になったのを買ったのには、理由がある。
 
山田太一は2017年1月に、脳出血を起こした。それから半年が過ぎて、インタビュアーが、後遺症も含めて、自宅で近況を聞いている。文庫にはそれが、特別付録として付いていて、それを読みたかったのだ。
 
とはいえ、もとの単行本は読んでいないから、順番に読むことにする。
 
冒頭は「脱・幸福論」。のっけから、「もともと幸福は感じるもので論ずるものではない」とある。これは、あまり気のすすまない原稿を、いやいや書いているなと思い、ページの終わりの出典を見ると、「文藝春秋 臨時増刊」とある。きっと、「今ふうの幸福論」というようなタイトルで、書きたくもない原稿を、書かされたに違いない。
 
冒頭がこれでは、山田太一とはいえ、あまり期待できないな。
 
ということではあるけれど、それでもやっぱり、山田太一らしいところはある。
 
むかしシカゴで出会った、二十歳くらいの女性の、邪気のない笑顔が忘れられない、という話の結末。

「……私の中に四十数年、数秒の笑顔が消えずにいるところを見ると、小さなことに見えて、笑顔のあるなしは、相当大きなことなのかもしれない、と、いいつのりはしないが、今でも思い続けている。」
 
この文章中、「と、いいつのりはしないが、」というところが、なんとも言えず山田太一である。
 
あるいは『沢村貞子という人』を書いた、山崎洋子という人。この人は、三十数年にわたって、沢村貞子のマネージャーを務めた。
 
山田太一は、そのマネージャーの人となりを、こういうふうに記す。

「『三月に一足』靴を履きつぶすくらい映画会社やテレビ局を歩き回り、俳優さんの側にあってはしんとして影のように静かというのは、格好いいといえば格好いいが、長きにわたれば自我の始末に困ることはないのだろうかとつい思ってしまう。しかし、この本にはそういう揺らぎが少しもない。」
 
なるほど、「自我の始末に困ることはないのだろうか」というのは、こんな場合に使うんだな。使うことはないような気もするが、でも、心の中に書き留めておこう。

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