「今日の夕陽」は、古本屋との淡い交わりを記す。閉店するというので、慌ててその古書店を訪れ、何冊か購入した中に、串田孫一の一冊があった。
串田先生は、若菜晃子の敬愛する執筆者であり、また古書店主とも長年、親交があった。
その本の中に、「今日の夕陽」と題する詩がある。この詩は、ずっと昔に、著者が作者を忘れて、そらんじていたものだ。
そこから、著者の連想は、自在に伸びてゆく。
「夕陽ははじめ、地上を照らし、やがて空を染めていく。空をゆく雲が、自らもゆっくりとかたちを変えながら、薄いサーモンピンクから、濃い紅褐色へと徐々に色を変えていく。」
これはもちろん、山の景色だ。著者は、そこから徐々に変化する自然を、豊かに、的確にとらえる。
「やがて遠くの山並みの稜線だけが赤みを残し、山々は青く沈み始める。黒いシルエットになったカラマツの梢が少しの風に揺れている。空にはいつの間にか白銀の月が昇っている。足もとの草からは夕闇の匂いがする。今日という日が終わるんだなと思う。」
こんな日が、しかも取り立てて、特別な一日というわけではない日が、あるんだ。そういう、何でもない一日の描写を、的確に読むところがすごい。人はこういうふうに、年月を重ねたいものだ。
「兄に似た人」は、登山口まで行くバスで、兄と似た人に出会ったという話。筋はそういうことなのだが、途中の景色が見事である。
「マユミの実が赤く色づいているのが見える。薄紫色のユウガギクも咲いている。ダケカンバの白い幹も見える。光るススキの原のなかにぽつねんと人が立っている。牛が草をはんでいる。なにもかもが秋めいている。」
このあと、昔の兄との、ごく淡いやり取りが回想される。そして、結びの一文が来る。
「山には時々、兄に似た人がいる。」
ただただ見事である。
最後の「木村さん」と「誕生日の山」が、掉尾を飾って素晴らしい。
「木村さん」は、最初に会社に入ったときの上司だが、今はもう病床にあって、一刻を争う時だ。著者は、会いにゆこうかゆくまいか、迷う。その機微が、じつに繊細に描かれる。
「誕生日の山」は、これこそ最後に来るにふさわしい。
「……私の内に昔からある、自然のなかで美しいものを見たときに決まって心中から湧き上がる、言葉にはしがたい懐かしみを伴った、喜びの感情であった。
それは生きてきた長い年月の間に蓄積された感覚のようでもあり、生まれたときからもっている感情でもあるようで、あるいは期せずして現れるこれが、たましいのふるえなのかもしれない。」
すでに何冊も著書のある人で、しかもこんな名分を書く人を、知らなかったなんて、ただただ不覚というほかない。
(『街と山のあいだ』若菜晃子、アノニマ・スタジオ、発行・KTC中央出版、
2017年9月6日初刷、12月4日第2刷)
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